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第86景 四ッ谷内藤新宿

第86景 四ッ谷内藤新宿 安政4年(1857)11月改印 
よつや ないとうしんじゅく

第86景四ッ谷内藤新宿

甲州街道は、参勤交代の大名は高島、高遠、飯田の3藩だけに限られ、その他、将軍献上のお茶壷行列が通るくらいで、交通量は東海道や奥州街道などと比較してそれほど多くなかった。 元禄年間、そんな甲州街道に、新たに内藤新宿と呼ばれる宿場が整備された。 そもそも一般の旅人さえ多くなかった甲州街道に何故、宿場などを作ったのか。 これには裏話がある。

江戸から最寄の宿場町は、それぞれ、東海道の品川、中山道の板橋、日光街道/奥州街道の千住であり、江戸時代を通じて大変賑わった。 普通、それらは旅人の宿泊需要で栄えたと考えられがちだが、実はそれだけではない。

元禄10年(1697)、浅草安部川町の名主高松喜兵衛をはじめとする5人の町人が、運上金として金5600両を幕府に支払うことで新たな宿場の開設を願い出た。 表向きは利便性の確保だが、実際には新たに繁華街・行楽地を開発して、ひと儲けしようという思惑だ。 事実、新たに整備されたこの宿場町には、前述の3つの宿場同様、表向きは旅籠屋だが実際には岡場所と言われる非公認の遊郭が50以上も軒を連ね、江戸から出向いてくる遊び人で大いに賑わい、喜兵衛の戦略は一応は成功した。 しかし、あまりにも風紀が乱れたことや吉原筋から営業妨害にあたるとの訴えなどにより、わずか20年強で強制的に廃止に追い込まれる。(1718年)

( 四谷内藤新宿 江戸名所図会より )
四谷内藤新宿

明和9年(1772年)4月、50数年ぶりに内藤新宿が再開される。再開の理由はこうである。 もちろん、流通の増加もあったが、今度は幕府側が財政確保のために繁華街・行楽地収入を当てにしようとしたのである。宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒を有する大歓楽街に成長した。 飯盛り女(遊女)は、150人まで認められていたという。(品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人)

さて、前置きが長くなってしまったが、この広重の絵は百景随一品性を欠いた絵であるとよく言われる。 馬の糞まで落ちていて臭ってきそうだが、これが日本の原風景なのであろう。 これは早朝の風景と考えられる。 手前の馬やその先に見える白い馬は、早朝に獲れた野菜などを上り方面、すなわち江戸に運ぶ最中だろう。 一方、飯盛り女に見送られ、名残惜しそうに甲州方面に旅立つ人の姿も見える。 宿場西方に位置する天竜寺には時之鐘があった。 旅人や江戸からの遊び客を追い出すために、通常より早めに鳴らされたと言う。

江戸図86【安政3年(1856)実測復刻江戸図より】
086四ツ谷内藤新宿A

描写場所の特定は難しいが、馬が江戸方面を向いていること、旅籠屋が遠くまで続いていること、向こうの森を内藤駿河守の下屋敷(現新宿御苑一帯)であると仮定して、仲町中央付近であると推定した。 上記の図では見えないが、内藤家の屋敷は、四ツ谷大木戸手前で北側へせり出している。

現代図86
086四ツ谷内藤新宿B

関連する風景
第42景 玉川堤の花

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第42景 玉川堤の花

第42景 玉川堤の花 安政3年(1856)2月 改印
たまがわつつみのはな

第42景玉川堤の花

意外なことに、広重の江戸名所百景には実在しなかった名所も描かれている。 この「玉川堤の花」がまさにそれだ。 玉川堤の花、すなわち玉川上水沿いの桜の名所として知られていたのは、そもそも小金井であった。その小金井の桜並木の人気にあやかって、当時客引きに懸命であった内藤新宿が、新たに名所を作ろうと企てた。

実は、内藤新宿には、すでに享保時代に植えられた桜並木があった。 場所は、高遠藩内藤駿河守の下屋敷(現新宿御苑)北側の玉川上水沿いである。しかし、この上水は屋敷内を流れていたため、一般が花見を楽しめるような場所ではない。 そこで、もっとパブリックな場所を選んで、新たに桜を植えることにした。 所管役所(恐らく町奉行)の許可もとりつけ、安政3年(1856)2月、天竜寺裏の上水沿いに、大久保から移植した古木を中心に、大小の苗木と合わせ、約75本の桜を植えた。 その時、何らかの権威付けが欲しかったのだろう、この古木に許可なく  「御用木(幕府が植えた木)折取べからず」 という看板を掲げた。 しかしこの勝手な行為がまずかった。 このことが、官林の諸事一般を掌る御林奉行 (おんはやしぶぎょう)の耳に入り、結局、老中の指示でこの植えたばかりの桜が開花前に撤去されてしまうことになる。 つまり、この名所は誕生前に幻に終わってしまったのだ。 もうお分かりであろう、広重のこの絵は想像図、言い換えると、企画倒れの完成予想図なのである。

原信田 実氏のの著書、 謎解き広重「江戸百」 では、この絵を描くにあたって、恐らく内藤新宿筋から魚屋を含む版元に何らかの働きかけがあったと推理している。 というのも、同時期に広重は、これと同じ場所の完成予想図をあと2作品残している。 なかでも、団扇絵 「四ツ谷新宿堤の花」では、この絵の右手前のの向こうに見える妓楼が、大々的にフィーチャされている。 すなわちこの女郎宿が新名所の観光客を見込んで、広重に宣伝ポスターを依頼したというのだ。 この絵の改印は、安政3年(1856)2月であり、これはまさに桜の植えはじめられた時期と同じタイミングである。 なるほど、戦略的だ。


( 団扇絵「四ツ谷新宿堤の花」)
団扇絵


さて、この幻の新名所の場所はどこだろう。どこを探してもその場所を特定した記事は見当たらない。 しかし、斎藤 月岑(1804 ~ 1878年)の武江年表によると、桜が植えられたのは、「天竜寺後、上水脇へ... 」であるから、よく言われるように新宿御苑の正門付近ではない。 文面からそのまま解釈すると、ここは、追分(伊勢丹の交差点)を左折して、しばらくすると突き当たる天竜寺裏の上水沿いではないかと思う。 ここは、直線の広小路で、露店を出したり、客寄せするにもちょうどいい。 しかも、江戸図で考察するに、前述の女郎屋は、上水を渡った天竜寺側の門前町 (もんぜんちょう)内に位置している。 基本的に、門前町は寺社奉行の管轄で、町奉行の治外法権だから、賭場や岡場所を新設するにも都合がいい。 せっかく策を練った計画が頓挫した内藤新宿筋は、さぞガックリしたに違いない。 第86景 四ッ谷内藤新宿 でも述べたが、新宿の歴史は、まさに客引きと失敗の歴史である。

なお、広重の絵で上水は右に湾曲している。 しかし、実際には広小路沿いに直線である。これは遠近感を出すためのテクニックで、竪絵の江戸百景ではよく見られる。


江戸図 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
042玉川堤の花a

現代図
042玉川堤の花b

関連する風景
第86景 四ッ谷内藤新宿

第41景 市ヶ谷八幡

第41景 市ヶ谷八幡 安政5年(1858)10月 改印
いちがや はちまん

第41景市ヶ谷八幡

鎌倉の八幡宮が「鶴ヶ岡(つるがおか)」を冠するのに対して、市ヶ谷の八幡宮は、「亀ヶ岡(かめがおか)」を冠して亀ヶ岡八幡宮という。前者は、地名からついた名称だが、後者は、ただの洒落だろう。この亀ヶ岡八幡は、太田道灌が文明11年(1479)に、江戸城の西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられる。もともとは、もう少し東よりの麹町の方向にあったが、江戸城の外堀が掘られた時(1636頃)、現在地の市ヶ谷門外に移転したという。

明暦の大火後、尾張徳川家の広大な上屋敷が現在の防衛省などの場所にやってきた。すると、寂しかったこのあたりは、茶屋や芝居小屋なども立ち並び、賑わいの一角となった。尾張藩といえば、幕府の経費削減策を無視して、飲めや歌えで、経済振興を図った無頼の藩である。従って、この門前町が、尾張家中(かちゅう)の為の不法地帯であったのではないか、と想像すると面白い。さらに、楽園である内藤新宿が目と鼻の先であることもうらやましい。この絵は、市ヶ谷見附の土の一部を右下に置き、八幡宮と、現靖国通りと外堀通りが交わる場所に位置する門前町を緻密に描いている。中央左端に尾張家上屋敷の白壁と火の見櫓がちらっと見える。 

さて、江戸図を見ると、尾張家をはじめ、御三家の屋敷はどれも別格の広さであったことがわかる。これら御三家の屋敷は、当初は江戸城内、のちの「吹上げの庭」に、3軒が仲良く並んでいた しかし、明暦の大火(1657)後の区画整理で、御三家の屋敷は江戸城外へと移され、外堀の西北の外周に一定区間をあけて配置された。大名屋敷の跡地は、明治になると新政府に摂取され、政府の施設や練兵場、諸外国の大使館用地などに転用されたが、中でも、御三家の敷地はその後も特別扱いを受けてきたのだろう、今もなお、その敷地跡が当時とほぼ同じ面積で活用されている。惜しむらくは、小石川後楽園や赤坂御所の一部を除き、白壁や石垣など、江戸時代の遺構が殆ど残っていないことだ。

水戸徳川家 (小石川)  画像マウスオンで現代 
水戸葵100
水戸徳川家は、基本的に常府であるため、一般に将軍補佐役と勝手に思われてきた。副将軍などと呼ばれるのはこのためである。この敷地は、明治以降、砲兵関連の施設に転用され、現在は東京ドーム、小石川後楽園を含む一帯となっている。右は水戸葵紋。

尾張徳川家 (市ヶ谷)  画像マウスオンで現代 
尾張葵100
尾張の市ヶ谷の屋敷は、明治以降軍用地として摂取され、歩兵連隊や陸軍士官学校、そして大本営なども置かれた。戦後も自衛隊の駐屯地となり、三島由紀夫が割腹したのもここである。現在も、防衛省関連の施設が並ぶ。右は尾張葵紋。

紀州徳川家 (赤坂)   画像マウスオンで現代 
紀州葵100
御三家随一の広さを誇る紀州家の赤坂の屋敷は、明治以降赤坂離宮となり、仮皇居としても使われた時期もある。現在は、皇太子の住む赤坂御所並びに迎賓館の敷地として利用されている。右は紀州葵紋。

(江戸図41)【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
041市ヶ谷a

(現代図41)
041市ヶ谷b



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