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第89景 上野山内月のまつ

第89景 上野山内月のまつ 安政4年(1857)8月改印
うえのさんない つきのまつ

第89景上野山内月のまつ


「第11景 上野清水堂不忍ノ池」にも、同じこの月の松が描かれているだから、本当にそこにあったのだろう。 ねじくれて円形となった枝を満月に見立てて、そこから不忍ノ池を覗くというのはなかなか風流に思える。今は無くなってしまったようだが、もし現存していたら是非この構図で覗いて見たいものだ。

さて、上野寛永寺は、天海僧正の知見で西の比叡山延暦寺に対して東叡山寛永寺と称し、江戸の鬼門封じの役を担ったが、この不忍ノ池も、その比叡山眼下の琵琶湖に見立てて位置づけられた。 この絵右下に見える島も、琵琶湖の竹生島を模して、同じように弁才天を配している。 

弁才天は、七福神のひとつであり、基本的には「水の神」として、水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、この弁才天も不忍ノ池の水の守りであることは間違いないのだが、弁天様が琵琶を弾いていることから、「芸能の神」としても信仰を集めるようになった。 事実、この弁天の周辺には、江戸時代前期の箏(琴)の名手である八橋検校(1614-1685)の顕彰碑や、日本舞踊の花柳流初代寿美(1898-1947)を顕彰する扇塚、三味線糸の供養碑などがあり、今でもショービジネス界やその方面を目指す人々の参拝が絶えないという。 この弁才天が江戸以降芸能面の精神的支えになってきたことが分かる。

天海僧正が、もともと江戸建設の際の風水上の意図でこの地に池を配し、その守りとして弁才天を設けたのに、時代を経てすっかりその性格が変わっていったのは面白い。

■  高品質の復刻浮世絵歌川広重「上野山内月のまつ」

江戸図89 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
089上野山内月のまつA

現代図89
089上野山内月のまつB


関連する風景
第11景 上野清水堂不忍ノ池
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第90景 猿わか町よるの景

第90景 猿わか町よるの景 安政3年(1856)9月改印
さるわかちょう よるのけい

第90景猿わか町よるの景

江戸時代、娯楽というのは風紀の乱れの原因になるという理由で、よく取り締まりの対象となり、完全廃止とまでは行かなくても、縮小されたり遠隔地への追放の憂き目にあった。吉原も元来、現在の人形町交差点の北東にあったが、明暦の大火(1657年)後、8キロも北東の現在の場所に移転させられた。 しかし江戸の歓楽街は、決して滅びることはなかった。

天保12年 (1841年) 10月、堺町・葺屋町一帯(注)で起こった火災で、歌舞伎の中村座と市村座が全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。折りしも幕府は、天保の改革の推進中であり、綱紀粛正の一環として、芝居小屋の同地での再建を禁じ、翌年、浅草聖天町(現在の台東区浅草6丁目一帯)への強制移転を命じた。ついでに、木挽町(現在の東銀座、歌舞伎座付近)にあった河原崎屋もとばっちりを受け、同地への移転を余儀なくされた。

遠隔地に新設されたこの芝居町は、中村座系の元祖である、猿若(中村)勘三郎に因んで、ノスタルジックに猿若町と名付けられた。 しかし、あまりにも僻地であったため、最初の頃は客が入らず、経営上相当苦労したようだ。 しかし、中村座、市村座、河原崎座(森田座)のいわゆる江戸三座が、役者や作者の相互貸し借りなどの新機軸を打ち出し演目を充実させると、再び人気に火が点き、次第に客足が戻ってくる。そして、浅草寺参拝や芝居見物後の吉原遊び、或いは小塚原の処刑見物などとあわせ、浅草界隈は往時の人形町を彷彿させる一大歓楽街に成長した。

(注)中村座と市村座があった堺町・葺屋町は、現在の人形町交差点の西北に位置し、旧吉原と隣接していた時期があった。 事実、吉原移転直前までの数年間、人形町は、遊郭と芝居小屋が併設された江戸随一の娯楽拠点であったという。

(猿若町の詳細地図)
河原崎座の記載があるので、天保13年 (1842年)から安政2年(1855)迄の地図と推定される。
猿若詳細

第90景の右手前には、森田座の文字が見える。安政2年(1855)12月に、河原崎座の興業権が森田座に移っているので、広重のこの絵は、その直後から改印を受けた安政3年(1856)9月までの間に描かれたものだということがわかる。ちなみに、森田座は翌年の安政4年(1857)に守田座に改名している。

広重の絵によく月影は登場するが、この絵は人々や犬の影法師がくっきりと幻想的に描写され、本当に素晴らしい作品だ。 ゴッホの「夜のカフェテラス」は月影こそ無いが、イメージや構図は、この絵にインスパイヤされたものという。なるほど、芝居小屋に併設された茶屋の縁側は、カフェテラスと言えなくもない。

今昔写真90 (画面クリックで拡大)
猿若今昔
猿若碑

写真上右、手前から2台目のクルマの横に「守田座跡」の碑(写真下左)があることから、ほぼ広重と同じ視点で撮影できたと考える。猿若町は、現在の浅草6丁目一帯なのだが、旧町名の表記もありうれしい。

■ 手ぬぐい 梨園染 猿若町 夜の景
■ 夜のカフェテラス ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(複製名画・F6号)

江戸図90【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
090猿わかよるの景A

現代図90
090猿わかよるの景B

第60景 浅草川大川端宮戸川

第60景 浅草川大川端宮戸川 巳七 安政4年(1857)7月 改印
あさくさがわ おおかわばた みやとがわ

miyatogawa.jpg

吉原(台東区千束付近)は今でも不便な場所なのだから、江戸時代は言わずもがなで、仕事帰りにふらっと立ち寄れるような場所ではない。つまり、もし行くなら、前々から予定を立てて、気合を入れて行くような場所であったのである。

では、どこで気合を入れたかというと、およそ、ここ柳橋が好まれた。柳橋というのは、江戸随一の繁華街である両国橋広小路に隣接しており、ここには隅田川上り下り、或いは飯田橋方面の内陸部に往き来する舟便のターミナルがあった。今でも、観光用の屋形船の多くが、ここを基地としているが、それは、この歴史を受け継いでのことだろう。

柳橋には、多くの料亭や舟宿が軒を連ねていて、大店(おおだな)による大名や高級旗本への接待にもよく使われたという。庶民が行けるような飲み屋も結構あったようだ。その柳橋が用意していたのが、吉原への高速シャトル便である。ここから、三谷堀まで、猪牙舟が148文で運行されていた。つまり、柳橋エリアは、一次会で気合を入れて、吉原での二次会に流れるには誠に都合のいい場所であったのである。

図1 
今でも舟宿の風情を残す柳橋界隈(2011年12月筆者撮影)

さて、柳橋には、吉原出発以外の目的で気合を入れる者達もいた。左淵に描かれている七夕の短冊のようなものは梵天といって、講の象徴として用いられたものである。大山詣の出発前、ここで水に浸かって身を清め、対岸まで渡るという水垢離が行なわれていた。そう、柳橋は、詣で出発前に気合を入れる場所としても知られていたのである。この絵はその儀式後、両国橋を渡って戻ってくる一行を描いている。このあと、濡れた梵天のお札を市中に配り、いざ大山へとなる。

なお、タイトルにある浅草川、大川、宮戸川とは、いずれも現隅田川の別称だ。場所により、名称が変わるようだが何故ここで敢えて列挙する必要があったのだろう。また、背景は大山でなく筑波山である。深い意図があるのか興味深い。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
図3

図4

図5
江戸時代の両国橋は、現在の橋より下流にあったことがわかる。

図6 

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