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第94景 真間の紅葉手古那の社継はし

第94景 真間の紅葉手古那の社継はし -安政4年(1857)1月 改印
ままのもみじ てこなのやしろ つぎはし 

第94景真間の紅葉手古那の社継はし

ここも伝説の地が名所になった場所である。 江戸時代、この伝説は根強い人気があったようで、下総の国真間 (千葉県市川市付近) のこの地は、江戸ではないが、江戸名所として認知されていた。 江戸名所図会にもこの辺りが何篇も登場することなどからもそれがわかる。

タイトルにある手古那 (てこな、手児奈とも) というのは、少女の名前で、舒明天皇の時代の下総の国の国造の娘であったと考えられている。 国造というのは、645年の大化の改新で律令国家が誕生する前に使用されていた役職名であるから、また随分昔の話である。 彼女は容姿端麗で、多くの男たちから求婚された。 万葉集にも、”彼女はきっと自分のことを思っているに違いない" とか、”馬の音を気付かれない様に、そっと真間の継ぎ橋を渡って彼女に逢いに行きたい" などといった歌が沢山残っていて、彼女のモテぶりが伺える。

そんな手古那は、あまりにもモテすぎたためにノイローゼとなり、結局、真間の入り江に入水自殺をしてしまう。 その彼女を供養するために建立されたのが、真間山弘法寺 (ぐほうじ) で、彼女を祭る手古那の社と、真間の継ぎ橋との三点セットで名所となった。 特に、秋には紅葉の名所として賑わったという。

この広重の絵は、その真間山弘法寺の二股に分かれた楓の木の間から、左下に 「手古那神社(手古那の社)」、中央奥に 「真間の継ぎ橋」 を見下ろす形で望んだものだ。 神社を囲むようにしてある池のようなものは、手古那が入水した入り江の名残だという。 また、地平線に南総の鋸山を描き、ここが房総三カ国(上総国、下総国、安房国)の玄関口であることを誇示している。

郊外だけに今もなお当時の面影が残り、なかなかいい所だ。

山部赤人

■ 吾も見つ 人にも告げむ葛飾の 真間の手児奈が おくつきところ
  ( 私も見ましたよ、あの美しかったという真間の手児奈の墓を。 帰ったら人に教えてやろう )

■ 葛飾の 真間の入り江に うち靡く 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ
  ( 真間の入り江でなびく玉藻を刈っていた、美しい手児奈が思い起こされたまらない )

高橋虫麻呂

■ 勝鹿の 真間の井を見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手児奈し 思ほゆ
  ( 真間の井戸を見ると、昔ここで楽しく水を汲んでいた、美しい手児奈が思い起こされたまらない )

詠み人知らず

■ 葛飾の 真間の手児奈を まことかも 吾に寄すとふ 真間の手児奈を
  ( 葛飾の真間の手児奈は、私に心を寄せてに違いない。 あの、真間の手児奈がだよ )

■ 葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすいに 波もとどろに
  ( 葛飾に真間の手児奈が居た頃は、あまりの美しさに磯部の波もとどろいたものだ )

■ 足(あ)の音せず 行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ
  ( 足音をさせない馬さえいれば、毎晩この継橋を渡って、手児奈のところへ通えるのになぁ )

なるほど、モテモテである。

写真94
真間の紅葉写真b

① 真間山弘法寺境内の楓
② 真間の継ぎ橋  
③ 手児奈霊神堂本堂
④ 手児奈霊神堂境内にある手児奈が入水したという入り江の名残

* いずれも2009年11月21日筆者撮影

現代図94 (GooMapより作成)
真間の紅葉

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第95景 鴻の台とね川風景

■ 万葉集
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第95景 鴻の台とね川風景

第95景 鴻の台とね川風景 -安政4年(1857)1月
こうのだい とねがわふうけい

第95鴻の台とね川風景

徳川家康が江戸に入る以前、利根川は隅田川を経由して江戸湾に注いでいた。 江戸での洪水を防ぐため、流れを銚子筋に通す計画を立てると同時に、まずは、文禄3年(1594)から江戸近郊での河川繋ぎ換え工事を行い、水系を分散して江戸湾に放出させるようにした。 最終的には寛文5年(1655)までに、流れを集中的に放出できるよう、新たに大規模な河川を造営する。 これが現在の江戸川(河口は旧江戸川)であるから、江戸時代の人がこの川を "とね川″と呼んでも、決して勘違いというわけではない。 しかし、こんな大河をユンボーもない時代に人工で掘ったとは驚きだ。

さて、 タイトルに鴻の台 (こうのだい) とあるが、これは仮借(当て字)で今も地名の残る千葉県市川市国府台 (こうのだい)のことを指している。 国府台というくらいだから、ここには国の行政の中心地である国府 (こう) があった。 この下総国の国府は、古代は奥州方面への要所、中世以降は、鎌倉や江戸に近いという場所柄、さまざまな歴史の舞台になってきた。

簡単に年代順に挙げておくと、

- 律令制がひかれる前から国造の治める豪族の郷があったと考えられる。 また古墳も多く確認されている。 手児那伝説はこの時代。 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 参照

- 645年の大化の改新以降にここに下総国府が置かれると同時に国分寺、国分尼寺も建立され、小京都のような条里制の都市が造られる。

- 939年 関東に独立国家建設を目指す平 将門に攻撃されて一時攻め落とされるが、将門の乱の鎮圧後、とりあえず復興する。 しかし、1030年頃には将門と同じような野望を持った平 忠常が乱を起こし、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)の国府の力は急速に衰える。

- 治承4年(1180)南総に逃れていた源頼朝が、下総国府に入り、ここで2万7,000余騎を集め、鎌倉へ出陣、武家政権確立の先駆けの地となる。

- 文明11年(1479) 扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が、千葉氏討伐の際に、この地に砦を築いたのがきっかけとなり、その後鴻之台城 (こうのだいじょう) が設置される。

- 鴻之台城に陣を引いていた房総里見氏を、天文7年(1538)及び永禄7(1564)年の2回に渡り、小田原北条氏が攻撃し、結局里見氏は敗走。 鴻之台城は、北条氏管轄となる。(第一次、第二次国府台合戦)

- 天正18年(1590) 豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、鴻之台城は徳川氏預かりとなるが、江戸を見下ろせる要塞は危険との理由で廃止され、しだいに忘れられた荒城となる。

八犬伝

右の絵は、「里見八献伝・芳流閣の場」 (豊原国周画)

滝沢馬琴によって描かれた 「南總里見八犬傳」 では、里見軍は 行徳口・国府台・洲崎沖の3ヶ所を舞台としたとされる関東大戦で八犬士の活躍により大勝利を挙げることとなるが、これは史実ではない。 里見氏は、江戸初期まで館山藩主として存続するが、その後鳥取に流され、失意のまま断絶する。 最後の当主の忠義の死に際し、殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称され、それが八犬伝諸士のモデルになったと言われている。
 




 
-寛文3年(1663)、鴻之台城の跡地に総寧寺が移転してくる。そして、真間の手児奈伝説や紅葉の景勝地、また里見八犬伝ゆかりの地ということで、江戸でもないのに、江戸名所図会や江戸名所百景に描かれるような江戸名所となる。

-明治になって、国府台一帯は、陸軍教導団 (下士官養成学校)や砲兵部隊、並びに陸軍病院などが置かれ、再び軍事要塞の体を見せるが、戦後はその流れを汲む学校や病院の町となる。 国府台城址は、洋風の里見公園として整備され、桜の名所となっている。

この高台に歴史あり、である。江戸名所百景の舞台としては、一番物語が多い場所なのではないだろうか。

現代図95 (Gooマップより作成)
国府台

江戸名所図会などにもほぼ同じ構図の絵があり、このように江戸川に張り出した高い崖が描かれている。現在は見当たらない崖なのだが、 昭和初期のこの地の航空写真を見ると現代図95に矢印を記したあたりに、崖の名残と思われる張り出したラインが確認できる。従って、広重のデッサン地は現代図95の*印のあたりであると推定する。この角度だと、広重の図のように右側に富士山が見えてもおかしくない。

写真95 【昭和22年 国府台近辺上空写真(Gooマップより)】
国府台明治

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第94景 真間の紅葉手古那の社継はし

現代語訳南総里見八犬伝(上)
現代語訳南総里見八犬伝(下)

第87景 井の頭の池弁天の社

第87景 井の頭の池弁天の社 安政3年(1856)4月 改印
いのがしらのいけ べんてんのやしろ

第87景井の頭の池弁天の社

武蔵野には、将軍家及び御三家の広大な鷹場があった。御三家の鷹場が交わる場所を「三領の鷹場」と呼び、そこから三鷹という地名が起こった。 そんな鷹場に昔から、「七井の池」と言われる名水の泉があった。 三代将軍家光が、ここの水は最高ということで、すこぶる洒落た名前をつけた。 "Top Of The Well" 、すなわち井の頭池である。 ここは、古くから景勝地として知られており、図中の弁天堂は、もともと平安時代中期の天慶年間に作られたものである。 一度鎌倉末期に消失したが、江戸時代になって、この地を気に入った家光が再建した。 井の頭池の近辺は、将軍のみならず庶民からも人気があり、江戸から少し遠いが、なかなかの名所であったという。 絵を見るに、確かに郊外ののんびりした風景ではあるが、どことなく格調高い雰囲気が漂っている。 

実は、この井の頭池は、江戸に住む人々にとって重要な役割を担っていた。 この泉などを源泉としたのが、神田川(古くは平川)であり、上水(飲料水)道として整備されてからは、まさに、命の水の源となった。 神田川を上水として整備するよう命じたのは、徳川家康である。 つまり、家康は江戸の町作りを始めるタイミングで、ライフライン作りにも着手したというわけだ。 天正18年(1590)のことだから、関が原の戦いの10年も前の話である。

この工事を担当したのは、旗本の大久保藤五郎(彼は、家康専属のパティシェだった)と言われており、藤五郎はこの功により家康から「主水 The Master Of Water」の名を拝命した。 呼称については、家康から水が濁ってはならないから、「モンド」ではなく「モント」と唱えるよう命じられたという。 といっても、Monto Ohkuho が普請を仕切ったのは、もっとずっと下流であり(小石川上水か?)、実際に井の頭から、江戸市中まで整備されたのは、やはり家光の時代の天下普請の時(1629年頃)である。 いずれにせよ、日本の都市上水道の第一号であり、江戸を語るうえでは外せないトピックといえよう。

昭和22年の同地の航空写真(マウスオンで現代地図)Goo地図より作成


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