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第97景 小奈木川五本まつ

第97景 小奈木川五本まつ 安政3年(1856)7月 改印
おなぎがわ ごほんまつ

第97景小奈木川五本まつ


戦国時代、塩は篭城の際に魚や野菜の長期保存をするための必需品であったから、家康が江戸入り直後に最も重視したことのひとつが、江戸への塩の安定供給であった。その調達先となったのが下総国行徳であり、その水運経路の一部として、当時の海岸線を整備して作られたのが小奈木川(小名木川)である。小名木川は、高速運搬を意識したのか、隅田川と中川を東西につなぐ約5キロを、見事一直線に結んでいる。

江戸経済の発展にともない、小名木川は、塩の供給経路としてだけではなく、物資流通の動脈として重要な役を担うようになる。 また、江戸と行徳や鴻之台(国府台)方面とを結ぶ定期航路も設置され、江戸近郊への観光経路として大いに利用されたという。

その小名木川のほぼ中間の北岸、深川猿江町の一角に整然と並ぶ5本の松があった。広重が描いた頃には、そのうち4本は既に枯れてしまっていて、丹波綾部藩九鬼氏の下屋敷内に残った1本の松の枝が、伸びに伸びて小名木川の水面に覆っていた。江戸名所図会の絵からも、水上につっかえ棒があったことなど当時の様子がリアルにわかる。 観光客にとって、舟でのんびり松の下を潜るというのは、とても風流なアトラクションであったに違いない。

江戸名所図より「小名木川五本松」 『川上と この川下や月の友 芭蕉』
五本松名所図会

なお、この第97景で川の流れは大きく右にカーブを描いているが、図97からもわかるように小名木川は5キロに渡り一直線である。広重の絵では、遠近感を出すためにデフォルメしていると思われ、「第42景玉川堤の花」の上水の描写でも同じ手法をとっている。

図97 
小名木川沿い

図中に、江戸百景に登場する名所を記した。

A 第56景 深川万年橋 ( 墨田川との接続地点 ) 
B 第97景 小奈木川五本まつ (当図)
C 第70景 中川口 ( 中川との接続地点。中川番所と言われる関所があり、江戸への出入りを取り締まった。) 


江戸図97 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
097小奈木川五本まつA


現在図97
097小奈木川五本まつB
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第65景 亀戸天神境内

第65景 亀戸天神境内 安政3年(1856)7月 改印
かめいどでんじん けいだい

第65景亀戸天神境内

「亀戸天神境内」

江戸府内には、湯島天神、平河天神など、有名な天満宮がいくつかあるが、この亀戸天神は、創建こそ正保3年(1646)とそれほど古くはないものの、大宰府天満宮の神木(飛梅)で掘った菅原道真の像を奉ったのが始まりと、極めて格式が高い。境内も大宰府天満宮を模して本殿の前に心字池を配して太鼓橋を掛けるなど、本社に似た境内の配置が今も残る。 事実、東の宰府として「東宰府天満宮」とも呼ばれていた。

天満宮と言えば、菅原道真が京から大宰府に左遷された時、京の屋敷の梅が道真を慕って飛んで行ったという飛梅( とびうめ )伝説から、梅の名所となる場合が多いのだが、この亀戸天神は、藤の名所でもあった。この近所で梅の名所と言えば、第30景に描かれた「亀戸梅屋敷」であるが、梅ではそこにはかなわないと観念し、敢えて藤をフィーチャーしたのだろうか。心字池の周囲を藤棚が取り巻き、その下に腰掛けて花見を楽しんでいる様子が、この第65景でも確認できる。 当時は、境内に茶屋や酒楼もあり、蜆(しじみ)汁が名物であったようだ。 すすってみたい。 

現在は、観光地されていることで、かえって江戸情緒がうまく保存されている。 周囲に雰囲気のある高級料亭が並んでいるのもうれしい。

今昔写真65 (画面クリックで拡大)
亀戸今昔


写真65 (画面クリックで拡大)
亀戸天神写真2
写真はいずれも筆者撮影(2009年11月29日)

江戸図65 安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
065亀戸天神境内A

現代図65
065亀戸天神境内B


■ 熟練の職人技が光る創業80年の木版画工房直営 高品質の復刻浮世絵歌川広重「亀戸天神境内」
■ 『広重/亀戸天神境内』ポスター PP-30968
■ 手ぬぐい 名所江戸百景 亀戸天神境内

第70景 中川口

第70景 中川口 安政4年(1857)2月 改印
なかがわぐち

第70景中川口

物資の流通が水運中心であった江戸時代、奥州方面から江戸へと向う船は、鹿島灘を越えて房総半島沿岸まで来ると、なんといったん伊豆下田まで帆走し、風を待って江戸湾に戻ってくるというルートを採らざるをを得なかった。このコースは、風待ちの日数がかかるうえ、海難事故による犠牲が後を絶たなかったため、どうしてもその対策が急がれた。そこで、那珂湊、或いは銚子まで来た舟は、積荷をいったん小型船に積み替え、霞ヶ浦経由で利根川を関宿(野田市)まで遡り、今度はぐるりと江戸川づたいに江戸方面に戻ってくるというルートが開拓された。これを奥川廻し(おくかわまわし)という。(衛星写真70参照) 今では考えられないような遠回りであるが、前述の伊豆廻りよりずっと安全であったため、おおいに利用されたという。 なお、江戸川は隅田川の洪水回避と、この奥川廻しの為に掘られた人工の河川だ。これを話題にする度に、先人のエネルギーに驚愕せざるを得ない。

衛星写真70
奥川廻し地図

さて、この舟が行徳を越えて、江戸に入るためには、最後に小名木川を通ることになる。その小名木川の入り口が、第70景のタイトルにある中川口であり、そこには中川番所と言われる舟番所が置かれていた。 第70景の左下に番所の木戸らしきものが見える。もともと、小名木川の舟番所は、隅田川の接続地点である万年橋付近にあったが、下総方面から深川地域に入る荷の取り締まりの必要性から、寛文1年(1661)に、ちょうど反対側のここ中川口に移動した。中川番所は、奥川廻しの流通統制は言うまでもなく、軍事監視拠点の意味合いもあり、番所設立時のお触書には、女子はいかなる理由があっても通さないというくだりがあった。すなわち、箱根関所と同じく、出女 (大名の家族が勝手に国へ逃げ帰ること)を厳しく警戒していたということが言える。 ちなみに、この中川番は、3000石以上の旗本から選ばれるなど、なかなか格式が高い。3000石と言えば、町奉行や勘定奉行と同クラスだ。幕府がいかにこの関所を重視していたのがわかる。

ただ、そんな厳しい関所でも、お参りに行くという理由なら女子でもokという例外もあり、江戸初期の厳しい掟も時代が下るにつれてだんだんと形骸化して行ったようだ。 そんな厳しかったら、真間の紅葉も見に行けないし、ばらばら松も見られない。 江戸後期には、舟頭が「通りま~す」と言えば、役人が、「通れ~っ」ってな具合だったようである。(中川番所資料館の展示説明より) この絵を見ても、旅人の舟が関所に接岸する気配はない。 


江戸図70 【安政3年(1856年)実測復刻江戸図より作成】
070中川口a

現代図70
070中川口b

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