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はじめに

「目録絵」 一立斎広重 一世一代江戸百景 

名所江戸百景は、それぞれがどこで描かれたものなのかを検証するこころみは結構あった。実際百景の舞台となった場所を撮影し、現況との比較を行った出版物やホームページは多く存在するが、そもそも俯瞰図を多用する百景を地上写真にて比較しようということ自体に無理がある。 そこで今回は、実測復刻江戸図上に、広重がデッサンしたであろう「地点」とその「視点」を推理し、上空から当時の名所とその今を訪れてみる。 こうすれば、目の前に立ちはだかる建造物にも邪魔されず、文字通り時空を超えた江戸名所巡りを楽しめるのではないだろうか。

各項では、筆者なりの解釈と想像で、尤もらしい解説を記した。 記事を書く際には、現場検証はもちろん、あわせて、蔵書や図書館などの書籍を頼りに裏をとってはいるつもりだが、もし記述に間違いや、勝手な思い込みがあっても、素人の知ったかぶりということで、どうかご容赦いただきたい。 

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コラム 改印と年月印について

改印と年月印について

改印(あらためいん)とは、出版許可証(印)のことである。 当時、出版物を販売するためには、事前に検閲を受ける必要があった。 幕府への批判や、風紀が乱れることを防止するために、浮世絵への改印制度は、寛政の改革(1790)時より始まったと言われている。 許可を得るまでのプロセスは時代により若干異なるが、基本的に版元は、版下絵を町名主に提出して検閲を受ける。 町名主は、町年寄の配下で、さらに町年寄は町奉行支配であったから、町名主は、町人であるにもかかわらず、幕府より検閲行為を委任されていたということだ。

出版許可印も、当初は極印(きわめいん)と呼ばれた時代もあり、方法もまちまちであったが、江戸百景の頃は、「改印」と「年月印」のふたつが捺印されている。 この「年月印」を見れば、その作品の出版許可年月がわかる。 例えば、安政4年(1857)は十二支でいうと巳年にあたるので、この年の10月に出版許可を受けた絵には、「改」 「巳十」 のふたつの印が押されている。(1月の場合は正月の正の文字を用いる。例えば安政4年(1857)1月は 「巳正」となる。) つまり、ある絵を指して、安政4年10月の「改印」のある広重の絵などとと解説しているものがあるが、改印とはあくまでも許可印のことであり、年代を教えてくれる手がかりにはなり得ない。 出版許可を得た年月を教えてくれるのは、あくまでも「年月印」の方である。

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【改印 (年月印)順】 名所江戸百景(版元 魚屋栄吉)総覧 

辰二 安政3年(1856)2月
1 第108景 芝うらの風景
2 [第103景]「千住の大はし」
3 [第110景]「千束の池袈裟懸松」
4 [第42景]「玉川堤の花」
5 [第96景]「堀江ねこざね」

辰四 安政3年(1856)4月
6 [第52景]「赤坂桐畑」
7 [第87景]「井の頭の池弁天の社」
8 [第11景]「上野清水堂不忍ノ池」
9 [第88景]「王子滝の川」
10 [第28景]「品川御殿やま」
11 第83景 品川すさき
12 [第29景]「砂むら元八まん」
13 [第117景]「湯しま天神坂上眺望」

辰五 安政3年(1856)5月
14 [第17景]「飛鳥山北の眺望」
15 第95景 鴻の台とね川風景
16 [第16景]「千駄木団子坂花屋敷」
17 [第54景]「外桜田弁慶堀糀町」
18 第1景 日本橋雪晴
19 [第26景]「八景坂鎧掛松」
20 [第15景]「日暮里諏訪の台」

辰七 安政3年(1856)7月
21 [第99景]「浅草金龍山」
22 [第31景]「吾嬬の森連理の梓」
23 第97景 小奈木川五本まつ
24 第65景 亀戸天神境内
25 [第51景]「糀町一丁目山王祭ねり込」
26 [第50景]「角筈熊野十二社」
27 [第22景]「広尾ふる川」
28 [第23景]「目黒千代か池」

辰八 安政3年(1856)8月
29 [第61景]「浅草川首尾の松御厩河岸」
30 [第35景]「隅田川水神の森真崎」
31 [第71景]「利根川ばらばらまつ」
32 [第106景]「深川木場」
33 [第45景]「八ツ見のはし」
34 [第59景]「両国橋大川ばた」

辰九 安政3年(1856)9月
35 第90景 猿わか町よるの景
36 [第13景]「下谷広小路」
37 第8景 する賀てふ

巳正 安政4年(1857)1月
38 第2景 霞かせき
39 [第62景]「駒形堂吾嬬橋」
40 第53景 増上寺塔赤羽根
41 [第116景]「高田姿見のはし俤の橋砂利場」
42 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし

巳二 安政4年(1857)2月
43 第4景 永代橋佃しま
44 [第19景]「王子音無川堰棣」
45 [第27景]「蒲田の梅園」
46 [第20景]「川口のわたし善光寺」
47 [第104景]「小梅堤」
48 [第67景]「逆井のわたし」
49 [第115景]「高田の馬場」
50 第77景 銕炮洲稲荷橋湊神社
51 第70景 中川口
52 [第93景]「にい宿のわたし」
53 [第14景]「日暮里寺院の林泉」
54 [第57景]「みつまたわかれの淵」
55 [第109景]「南品川鮫洲海岸」
56 [第33景]「四ツ木通用水引ふね」

巳四 安政4年(1857)4月
57 [第38景]「廓中東雲」
58 [第37景]「墨田河橋場の渡かわら竈」
59 [第40景]「せき口上水端はせを庵椿やま」
60 第81景 高輪うしまち
61 第84景 目黒爺々が茶屋
62 [第24景]「目黒新富士」
63 [第111景]「目黒太鼓橋夕日の岡」
64 [第25景]「目黒元不二」
65 [第32景]「柳しま」
66 [第100景]「よし原日本堤」

巳五 安政4年(1857)5月
67 [第48景]「水道橋駿河台」
68 第107景 深川洲崎十万坪
69 [第64景]「堀切の花菖蒲」
70 第102景 蓑輪金杉三河しま
71 第5景 両ごく回向院元柳橋

巳七 安政4年(1857)7月
72 [第60景]「浅草川大川端宮戸川」
73 [第63景]「綾瀬川鐘か淵」
74 第80景 金杉橋芝浦
75 第73景 市中繁栄七夕祭
76 [第55景]「佃しま住吉の祭」

巳八 安政4年(1857)8月
77 [第39景]「吾妻橋金龍山遠望」
78 第89景 上野山内月のまつ
79 第91景 請地秋葉の境内
80 [第66景]「五百羅漢さゞゐ堂」
81 [第21景]「芝愛宕山」
82 第69景 深川三十三間堂
83 [第82景]「月の岬」
84 第68景 深川八まん山ひらき
85 [第36景]「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」
86 [第34景]「真乳山山谷堀夜景」

巳九 安政4年(1857)9月
87 [第18景]「王子稲荷の社」
88 第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火
89 [第49景]「王子不動之滝」
90 [第58景]「大はしあたけの夕立」
91 第10景 神田明神曙之景
92 第85景 紀の国坂赤坂溜池遠景
93 [第47景]「昌平橋聖堂神田川」
94 第6景 馬喰町初音の馬場


巳十 安政4年(1857)10月
95 [第46景]「鎧の渡し小網町」

巳十一 安政4年(1857)11月
96 [第101景]「浅草田甫酉の町詣」
97 [第30景]「亀戸梅屋敷」
98 第75景 神田紺屋町
99 [第9景]「筋違内八ツ小路」
100 [第113景]「虎の門外あふひ坂」
101 第56景 深川萬年橋
102 第86景 四ッ谷内藤新宿


巳十二 安政4年(1857)12月
103 [第112景]「愛宕下薮小路」
104 [第105景]「御厩河岸」
105 第76景 京橋竹がし
106 [第43景]「日本橋江戸ばし」
107 第92景 木母寺内川御前栽畑
108 第3景 山下町日比谷外さくら田

午四 安政5年(1858)4月
109 第7景 大てんま町木綿店

午七 安政5年(1858)7月
110 第74景 大伝馬町ごふく店
111 第79景 芝神明増上寺
112 第78景 銕炮洲築地門跡

午八 安政5年(1858)8月
113 [第44景]「日本橋通一丁目略図」
114 [第72景]「はねたのわたし弁天の社」
115 [第98景]「両国花火」

------------- 歌川広重 逝去 安政5(1858)年9月6日 ----------------

午十 安政5年(1858)10月
116 [第41景]「市ヶ谷八幡」
117 [第12景]「上野山した」
118 [第114景]「びくにはし雪中」

未四 安政6年(1859)4月
119 [第119景]「赤坂桐畑雨中夕けい」

以上119作品

2012 谷根千 SAKURAアーカイブ (エリア1)

桜満開の4月7日(土)に江戸小京都の谷中・根津エリアを散策してきました。広重 Hiroshige「江戸名所百景」の番外編として掲載しますのでご覧ください。スタートは、鶯谷駅南口で、寛永寺から桜木、谷中、根津をめぐるショートコースです。花見の季節以外にも谷根千散策の参考になるかと思いますので、ご高覧いただければ幸いです。

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【エリア1 東叡山寛永寺近辺】

徳川氏の菩提寺である上野の寛永寺は、徳川氏が幕府を開いたあとに新規に造営したという点で芝増上寺とは異なる。上野の丘を京都の比叡山にならって東叡山とし、現在の上野公園を含む丘のほとんどを寺の施設で埋め尽くすなど、まさに徳川氏の権威の象徴そのものであった。現在の国立博物館と噴水一帯が大伽藍の中心であったが、惜しくも慶応4年(1868)の上野戦争でその建造物のほとんどを焼失させてしまう。現在はかつての末寺の大慈院跡の地に本堂を構え、ひっそりと徳川氏霊廟を守り続けている。

写真 12-04-07 18 35 34_R
 1.寛永寺根本中堂

 根本中堂と言えば、比叡山延暦寺の代名詞である。
 寛永寺は、東国の延暦寺の意で東叡山を冠して
 いたから、上野の山にも根本中堂は必須である。

 オリジナルの根本中堂は上野戦争で焼失してしまったが、
 明治12年(1879)に春日局ゆかりの喜多院本地堂が
 川越からここに移築され、根本中堂が復活した。
 巨費を投じた移築は、寛永寺の起死回生の意地であった
 ということだろう。

 喜多院本地堂は、寛永15年(1638)の建造というから、
 徳川全盛時代のオリジナルの遺産である。
 それをここで見られるという点で、上野の根本中堂は、
 史跡としての価値が高い。



写真 12-04-07 11 59 16_R
2.檀家講堂

寛永寺のいたるところで見ることの
できる三葉葵の紋所は、筆者のような
佐幕派には眩しく、そして感慨深い。 



写真 12-04-07 20 27 48_R
 3.徳川家綱霊廟勅額門

 寛永寺の霊廟には、歴代15人の将軍のうち、
 四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、
 十一代家斉、十三代家定の六将軍の霊が
 埋葬されている。

 かつてそれぞれの霊廟には、勅額門と称する
 立派なエントランスが存在していたが、戦災などで
 焼失し、現在残るのは、家綱と綱吉の2つの勅額門
 のみである。(いずれも肝心な勅額は喪失)

 霊廟そのものは非公開であるのだが、勅額門
 だけでも真近に見られるのはうれしい。


写真 12-04-08 1 46 32_R
 4.国際こども図書館

 これは、もともと明治39年(1906)に帝国図書館として
 建てられた上野を代表する歴史的建造物のひとつである。
 昭和4年(1929)に増築され、最近(平成12年)になって
 現在の安全基準にあわせて全面改装された。
 
 外装をできるだけ尊重しながら、シャシーに根本的な
 改造を加える様は、今やっている辰野金吾の東京駅の
 保存施策と同じ指向だ。巨費をかけて文化財を保護し、
 維持してゆく姿勢は心から支持したい。



写真 12-04-08 1 47 41_R
 5.東京藝術大学赤レンガ2号館
 
 煉瓦つくりの校舎を背景に桜を一枚撮ってみた。
 桜とクラシカルな西洋建築との対比は、明治時代に
 描かれた錦絵のように美しい。

 この建物は、明治10年(1877)に教育博物館書籍
 閲覧所書庫館として建設されたものだ。
 現在は芸大音楽学部の校舎として使われているが、
 老朽化のため、解体が計画されているという。
 これも、是が非でも保存すべき遺産であろう。



【写真撮影地】
図1a

図1b
■ 上記地図は江戸明治東京重ね地図より作成
■ 写真はいずれも2012年4月7日 筆者撮影 【撮影機材 Canon S/100

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