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第5景 両ごく回向院元柳橋

第5景 両ごく回向院元柳橋 -安政4年(1857)閏5月改印
りょうごく えこういん もとやなぎばし

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両国にある回向院の境内の一角から、隅田川方面を俯瞰していることは説明するまでもない。 富士山のすぐ右下に見える橋が、薬研堀が隅田川に注ぐ場所に架かる元柳橋で、安政当時は難波橋と言われていた。 回向院と言えば勧進相撲。 ちょうど、その開催を示す梵天が櫓のてっぺんに掲げられている。 天明元年(1781)に初めて境内で勧進相撲が興行されて以来、天保年間に回向院相撲として定番化され、明治43年(1910)に両国国技館が建設されるまで、大相撲はここで行われてきた。 なお、回向院は明暦3年(1657)の振袖火事の際にその10万7千人を越えるとも言われる死者を弔う万人塚をつくったのが始まりで、その後も、火災や海難の犠牲者のための供養塔がいくつも建てられてきた。 もちろん、この絵が改印を受けたおよそ1年半前に起こった安政大地震の犠牲者のための供養塔も残る。

絵にある櫓は、同じく広重が描いた東都名所両国回向院境内全図を見ると、回向院の表門の右側にあったことがわかる。 したがって、これを左に置いて隅田川を臨んだということは、江戸図5の▲付近上空から、南西方向を俯瞰したと言えるだろう。

江戸図5 【安政3年(1856)実測復元江戸図より】
回向院江戸縮小

現代図5
回向院東京縮小

この絵の描かれた両国2丁目に航空写真でたずねてみる
リンク先の Gooマップでは、この付近の現代地図及び航空写真のみならず、昭和22年、昭和38年の航空写真と、明治図も確認できる。(投稿時) 昭和22年、昭和38年の航空写真を見ると、旧回向院の敷地内に、旧国技館があるのがわかる
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第91景 請地秋葉の境内

第91景 請地秋葉の境内 安政4年(1857)8月改印
うけち あきばのけいだい

第91景請地秋葉の境内

鎌倉時代に地頭が支配する土地のことを請地(うけち)というのだが、新編武蔵風土記稿によると、「(この)請地村は浮地なり、元大河(隅田川のことであろう)に辺せし地なれば、浮地の義(意味)を以て名付けしを仮借(当て字に)して今の地(字)を用ゆ」とあるので、地頭とは関係なく、浮いた地では格好悪いというので、請地という漢字が当てられた集落のようだ。 日本特有の風流駄洒落である。

さて、その請地村に千代世と呼ばれる森があり、そこには正応2年(1289)に創建された古びた稲荷神社があった。 江戸時代の初め、善財という霊僧がここに秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたが、その後、元禄15年(1702)に本多氏の寄進によって立派な社殿が造営され、秋葉稲荷両社と称されるようになった。 さらに別当として、境内に満願寺も建立された。

秋葉大神の神体は天狗で、火を背負って白狐にのった像であることから、防火の神とされ、火事の多かった江戸で武家や庶民の篤い信仰を集めた。 ちなみに、万世橋以北の外神田一帯には、明治になっても火事が多かったことから、この秋葉大神を新たに勧進し、さらに火除地としての原っぱを用意して鎮火を祈念した。 秋葉原(通称アキバ)の地名の由来はここにある。

さて、請地の秋葉に話を戻すが、この境内には、池や筑山などもあり、また秋の紅葉はとても有名だった。 江戸図にわざわざ紅葉マークがあることからもそれが分かる。 また、寺社仏閣に付き物の門前町には、高級料亭も並び、鯉料理が名物だったようだ。 さらに、境内に神泉の松というのがあり、そのウロ(空洞の幹)から沸く水は万病に効くという評判が話題を呼び、大名の奥方や大奥女中もこぞって訪れたらしい。 今ではあまり知られていないこの地が、かつては絶好の景勝地であったことが偲ばれる。

秋葉広重
なお、第91景左手前の庵で写生をしているのは、広重本人だと言われている。 確かに3代豊国が描いた広重の肖像画の袈裟と色が一致する。 江戸時代、アキバといえば風流オタクの聖地だったということか。 




江戸図91 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
091請地秋葉の境内A

秋葉神社の敷地は、満願寺を含み現在の10倍はあったことがわかる。第91景の描写地を特定することは困難だが、第91景の池と江戸図の池の形を比較して、※地点であると推定した。

現代図91
091請地秋葉の境内B

第92景 木母寺内川御前栽畑

第92景 木母寺内川御前栽畑 安政4年(1857)12月改印
もくぼじ うちかわ おんせんざいばたけ

第92景木母寺内川御前栽畑

江戸百景には、中世以前の伝説の舞台となった地を描いているケースがいくつかある。 今では碑しかないような伝説の地でも、幕末ならまだまだ中世を思い起こすことができるような風景が残っていたのだと考えると、当時の風景画は本当に史料的価値が高いと思う。

木母寺は、梅若丸(うめわかまる)伝説のゆかりの地である。平安時代中期、京都の北白川の官僚であった吉田少将惟房卿の一子梅若丸は7歳の時父と死別し、比叡山の稚児となった。 12歳の時、宗門争いに巻き込まれ、身の危険を感じて下山したが、その時に人買いの藤太にだまされ東国へ連れ去られる。やがて、この地まで来た時、病が悪化し、藤太の足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまう。 いったんは、梅若丸の高貴な身分を知った里人に助けられ、手厚い介抱を受けるのだが、

尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 
   すみだ川原の 露と消えぬと

という歌を遺して息絶えた。 それを哀れに思った忠圓阿闍梨という僧が、貞元元年(976)この地に塚を築き柳を植えて供養した。 これが今もこの地に伝わる梅若塚なのだという。

時代が下り、慶長12年(1607)、前関白の近衛信尹が塚を参拝した折、そこにあった念仏堂は木母寺と改名され、朱印寺として幕府に手厚く保護されるようになった。 またこのあたりは、よっぽど風光明媚な場所であったのだろう、明暦3年(1657)には木母寺の境内に将軍の別荘とも言える隅田川御殿が建てられ、歴代の将軍や京からの訪れも頻繁にあったらしい。 タイトルに見える御前栽畑とは、その御殿付属の畑のことである。

そんな隅田川御殿も、天明6年には廃止され、この一帯は庶民に開放され、水神社(現隅田川神社)とセットで京風の茶屋遊びが楽しめる、そんな江戸近郊の秘蔵リゾートとなった。

ここは、
第37景 墨田河橋場の渡かわら竈
~第36景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
~第35景 隅田川水神の森真崎 
 
とシリーズで続く、隅田川上り遊覧の終着点である。
この第92景は秋の図ではあるが、江戸図を見ると桜の名所だったこともわかる。


江戸図92 【安政3年実測復刻江戸図より作成】
092木母寺御前菜畑A

現代図92
092木母寺御前菜畑B

関連する風景
第35景 隅田川水神の森真崎
第36景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
第37景 墨田河橋場の渡かわら竈

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