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第87景 井の頭の池弁天の社

第87景 井の頭の池弁天の社 安政3年(1856)4月 改印
いのがしらのいけ べんてんのやしろ

第87景井の頭の池弁天の社

武蔵野には、将軍家及び御三家の広大な鷹場があった。御三家の鷹場が交わる場所を「三領の鷹場」と呼び、そこから三鷹という地名が起こった。 そんな鷹場に昔から、「七井の池」と言われる名水の泉があった。 三代将軍家光が、ここの水は最高ということで、すこぶる洒落た名前をつけた。 "Top Of The Well" 、すなわち井の頭池である。 ここは、古くから景勝地として知られており、図中の弁天堂は、もともと平安時代中期の天慶年間に作られたものである。 一度鎌倉末期に消失したが、江戸時代になって、この地を気に入った家光が再建した。 井の頭池の近辺は、将軍のみならず庶民からも人気があり、江戸から少し遠いが、なかなかの名所であったという。 絵を見るに、確かに郊外ののんびりした風景ではあるが、どことなく格調高い雰囲気が漂っている。 

実は、この井の頭池は、江戸に住む人々にとって重要な役割を担っていた。 この泉などを源泉としたのが、神田川(古くは平川)であり、上水(飲料水)道として整備されてからは、まさに、命の水の源となった。 神田川を上水として整備するよう命じたのは、徳川家康である。 つまり、家康は江戸の町作りを始めるタイミングで、ライフライン作りにも着手したというわけだ。 天正18年(1590)のことだから、関が原の戦いの10年も前の話である。

この工事を担当したのは、旗本の大久保藤五郎(彼は、家康専属のパティシェだった)と言われており、藤五郎はこの功により家康から「主水 The Master Of Water」の名を拝命した。 呼称については、家康から水が濁ってはならないから、「モンド」ではなく「モント」と唱えるよう命じられたという。 といっても、Monto Ohkuho が普請を仕切ったのは、もっとずっと下流であり(小石川上水か?)、実際に井の頭から、江戸市中まで整備されたのは、やはり家光の時代の天下普請の時(1629年頃)である。 いずれにせよ、日本の都市上水道の第一号であり、江戸を語るうえでは外せないトピックといえよう。

昭和22年の同地の航空写真(マウスオンで現代地図)Goo地図より作成


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■第 47景 昌平橋聖堂神田川
■第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場



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