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第72景 はねたのわたし弁天の社

第72景 はねたのわたし弁天の社 午八 安政5年(1858)8月 改印
はねだのわたし べんてんのやしろ 

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羽田に新国際線ターミナルが開業して、江戸小路なる新たな名所が生まれたが、羽田には以前にも名所が存在していた時期がある。

江戸時代後期、多摩川の河口には、長年に渡って土砂が体積し、広大な洲が形成されていた。 この洲の南の先端、ちょうど多摩川と江戸湊が接続する地点に、羽田弁天(玉川弁才天)と呼ばれる古い弁天堂があった。 深川州崎品川州崎と同じように、羽田の州崎にも同じように弁天堂があり、沖に浮かぶ常夜灯とセットで、竜宮城のような風景がここに広がっていたという。 この洲(のちの鈴木新田)の中ほどには、この弁天堂とは別に、穴守稲荷と呼ばれる波除の稲荷もあり、その参道沿いに何百本も続く奉納鳥居で有名であった。 明治以降、この稲荷の周囲に競馬場や釣堀、そして海水浴場なども作られ、前述の弁天堂とあわせて、羽田地区は、臨海のアトラクションスポットとして、昭和初期まで随分栄えたという。 京浜急行羽田線は、もともとここへ行くために敷設された路線と言っていい。

(写真72)
羽田写真

では、この名所はどうして消えてしまったのだろう。 もうお分かりだと思うが、この州が元となってできた平らな台地を利用して作られたのが、初期の羽田空港なのである。 穴守稲荷とそれを取り巻くレジャーランドは、今は無き旧ターミナルビルの北側ゲート付近、つまり、先日オープンしたばかりの新国際ターミナルの西側付近にあり、羽田弁天は、その南の多摩川沿いに位置していた。 戦後、進駐軍による空港拡張(Haneda Air Base 建設)により、双方共に、ずっと西方の現在地への立ち退きを余儀なくされたが、旧駐車場にぽつんと残されていた穴守稲荷の赤い鳥居のことを知っている人も多いだろう。 進駐軍をしても、撤去できなかった 「呪われた鳥居」などとして有名なあれである。 しかし、筆者としては、行き場を失った何百匹ものキツネの群れが、滑走路にたむろし、離着陸の邪魔をしたという伝説の方にむしろ興味がある。 滑走路に狐火なら、夜間の航空管制に支障をきたしそうでホントに怖い。 しかし、この鳥居も、1999年に何の祟りも無く移動され、現在、かつての弁天堂へと続く弁天橋の際にしっかり立っている。 また、最近、羽田に狐が出たという噂も聞かない。 【送料無料】検証・羽田空港

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広重の絵と、筆者撮影の写真とを比べてみた。 写真は弁天橋至近より撮影したもので、定説の描写地点よりも約1キロほど下流だ。 また、写真の鳥居は、旧羽田空港の駐車場から移設されたもので、広重の描いた羽田弁天のものではないが、首尾よく似た風景を再現できた。

さて、この広重の絵であるが、これは、羽田の渡しを主題に、後方に件の弁天堂と常夜灯を描いたものである。 遠く沖に見える影は、三浦半島だろう。 羽田の渡しは、別名、「六左衛門の渡し」とも呼ばれていたから、このスネ毛の船頭は、六左衛門ということか。 羽田の渡しは、およそ現在の大師橋沿いにあったというから、六左衛門の向こうに見える弁天堂と灯篭は、いかにも近すぎる。 少し上流の六郷の渡しとは、常に客の取り合いになっていたらしい。 つまり、六左衛門組は、川崎大師に向かう観光客にサービスとして、河口まで迂回していたということかもしれない。

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