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第16景 千駄木団子坂花屋敷

第16景 千駄木団子坂花屋敷 辰五 安政3年(1856)5月 改印
せんだぎ だんごさか はなやしき

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団子坂上というところは、なかなか興味深い場所である。というのも、根津神社は江戸中期に現在地に移るまでは実はここに鎮座していた。伝承によると、創建したのは、日本武尊であり、古事記や日本書紀の記された時代背景が正しいとすると、何と1900年も前の話である。東征の際にということらしいので、遠く蝦夷方面を見渡すこの高台に戦勝を祈願して、スサオウノミコトを奉じたということだろう。つまりここは、神話の時代にまでの歴史をさかのぼれる、それは由緒ある展望台なのである。 

時代は相当下ることになるが、広重は、そんな歴史ある高台に建てられた2棟の高級家屋を描いた。これは「紫泉亭」と呼ばれる茶亭であり、嘉永5年(1852)に、千駄木の植木屋宇平次という人物が開いた「千駄木花やしき」内に作られたもので、件(くだん)の地であるがゆえに景色がよく、崖の上には何と眺望露天風呂まである贅沢な施設であった。江戸の中心地からも近いので、花見のシーズンには群集が押し寄せるほど、有名な観光名所であったらしい。 

同じ広重が、江戸土産で、この「紫泉亭」からの東南の眺望を描いた絵を残している。 その絵を見てみると、まず、左端中央に谷中天王寺の五重塔が見える。 この塔は、江戸名所図会にも登場し、震災や戦火をも潜り抜けて来た谷中のシンボルなのだが、昭和32年に、心中事件の犠牲となって消滅してしまった。幸田露伴 「五重塔」の舞台と言えば、ピンとくる方もいるかも知れない。次に、絵中央に目を移してみると、そこに鎮座するのは、新播随院法受寺である。 関東大震災後に移転して、もうここにないのだが、実はこの寺もある物語の舞台となっている。「怪談牡丹燈籠」で、2人の幽霊(ツユと女中のヨネ)は、夜な夜なここの墓から抜け出しては、牡丹の絵柄の灯篭を手に、カラ~ンコロ~ンと萩原新三郎の住む根津清水谷 (現文京区根津1丁目付近)まで通って来るという設定だ。 名作 日本の怪談―四谷怪談・牡丹灯篭・皿屋敷・乳房榎 (角川ソフィア文庫) 

(絵本江戸土産 紫泉亭より東南眺望)
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寺町であるがゆえに陰気な風景であるが、さらにもっと南を望むと何が見えたのだろう。池之端や神田が見えたわけであるから、そのもっと右方向には、江戸湾も見えたはずである。事実、明治後期になって、この「紫泉亭」のすぐ裏手に、あの森鴎外が屋敷を建てた。彼の書斎から、品川沖が見えたとかで、その屋敷は、「観潮楼」と呼ばれた。植木屋の「紫泉亭」から品川沖が見えたかどうか分からないが、複数棟を渡り廊下で結ぶようなパノラミックな展望台である、ぐるりと廻ればお台場が見えた可能性は十分にある。天気がよければ、この地に社を築いた日本武尊の遭難した走水の海(浦賀水道)も見えたかもしれない。

最後に、広重がこの「第16景 千駄木団子坂花屋敷絵」を描いた視点について考えてみよう。江戸図を見ると、崖の下に池を確認することができる。つまり、この池が、広重の描いた池であると筆者は素直に考えている。しかし、「池があるのは、大名屋敷内なので、それは有り得ない」 という突っ込みが入るかもしれない。 しかし、この小笠原の屋敷は、抱え屋敷、或いは抱え地である。 抱え屋敷/抱え地とは、目黒千代が池の項で考察したとおり、他の所有者との入会地である。(←関連記事参照)江戸図を見れば、敷地内に、麟祥院領の文字が見えるので、ここがこの寺との共有地であったことがわかる。寺との入会地ということであれば、庶民の垣根は低いだろう。 植木屋宇平次の庭とも柵もなく繋がっていた可能性も考えられる。小笠原文庫は、「麟祥院領下馬込村小笠原左京大夫抱屋敷図面」よりこの敷地に家屋があったことを伝えている。ひょっとしたら、崖下に漂う源氏雲の下には、小笠原氏ゆかりの何かが隠れているということなのかもしれない。

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