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第43景 日本橋江戸ばし

第43景 日本橋江戸ばし -巳十二 安政4年(1857)12月 改印
にほんばし えどばし

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現在、日本橋の下を流れる川の正式名称は、一級河川日本橋川である。卵が先か、ニワトリが先か、なんていう言葉をよく耳にするが、日本橋という橋は、順序がひっくり返って橋の名前が川の名前になってしまうくらい、よっぽど偉い橋なのだろう。この川が正式に日本橋川と命名されたのは、明治になってからであるが、江戸時代にはすでに、誰もが日本橋川と呼んでいたと思われる。

そもそもこの川は、旧神田川である平川の流れをくみ、家康入府後に運河として掘られた道三堀と合流して、そのまま隅田川に連結するよう整備された人工の河川である。道三堀と日本橋川が江戸城の籠城戦に備えた生命線であったことは、八見の橋の項(←関連記事参照)で述べたが、泰平の世となると、各地より集まった舟が御城まで行かずに残りものを荷揚げをする一帯が形成された。それが、日本橋の河岸である。

江戸の町は、掘割を利用した運河が整備されていたので、京橋の河岸(←関連記事参照)など、至るところに地方の特産物を荷揚げする河岸があった。なかでも鮮魚は、冷蔵庫の無い時代、クイックなデリバリーを要求する必然性から、御城に最も近く、また人口の最も集中していた日本橋一帯が河岸として発展したと考えられる。

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この絵の右手には、この初鰹の桶を担ぐ魚屋が隠れている。恐らく、急ぎ足で得意先へデリバリーに向かう途中に違いないのだが、魚屋といえば一心太助。広重とは時代が違うが、まさに江戸初期である一心太助の時代が日本橋魚河岸の黎明期であったと想像するとその活気が想像されて面白い。余計な心配だが、大久保彦左衛門に届ける場合、駿河台の屋敷(最近は、駿河台は誤りで、現神田錦町近辺説が有力)なら近くていいが、老後に住んだという白金台(←関連記事参照)ならかなりあるので大変だ。

魚河岸は、関東大震災後に築地に移転してしまうのだが、日本橋で創業した、はんぺん、蒲鉾の「神茂」や、鰹節の「にんべん」等、の鮮魚加工業者の老舗が、今もなお、ここ日本橋に本社を構えて営業しているのはうれしい。
日本橋界隈は、ここ10年で再開発されて、どこかのキャッチコピー通り、過去と未来の共存する稀有なエリアとなった。 あとは邪魔な首都高をどう排除するかだ。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
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