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第46景 鎧の渡し小網町

第46景 鎧の渡し小網町 巳十 安政4年(1857)10月 改印
よろいのわたし こあみちょう

図1

東京証券取引所のある兜町のあたりは、もともと旧石神井川と、のちに整備される日本橋川(道三堀下流)が江戸湊に注ぐ河口の地であった。つまり、徳川氏による大規模な埋め立て工事が行われる以前、ここより東南は海だったわけである。平安時代に源義家がここで鎧(よろい)を海神に奉納したとか、藤原秀衡が、平将門の兜を埋めたとか、その他複数の伝説が江戸時代まで語り継がれていたくらい、中世よりこの一帯が下総国に向けた海上交通の要所として知られていたことが想像できる。なお、家康入府直後の一時期、この海沿いの一画に、幕府水軍(海賊衆)、向井将監の軍事基地が置かれていた。

天下普請で埋め立てが進み、旧石神井川は消え(その名残が堀留川)、合わせて日本橋川の河口はもっと東側に移動することになる。しかし、江戸橋から湊橋までの約1キロ間に橋は架けられなかった。人口も増え、人の往き来も激しくなる。これでは不便との声があがったのだろう、元禄時代に日本橋川を挟んで茅場町と小網町とを結ぶ渡し舟のサービスが開設された。元々このあたりの水辺は、前述のような伝説から「鎧の淵」といい、日本橋川の一部となってもそう呼ばれていたために、渡しの名称もそのままノスタルジックに「鎧の渡し」となったのだろう。

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さて、この広重の絵で描写されているように、この辺り一帯は、江戸中級以降、白壁が美しい倉庫街として発展した。というのも、この日本橋川は、江戸開府以降、下総方面から物資を江戸の中心地へと供給するための運河として活用されたから、河岸とあわせて倉庫が整備されたのは自然な流れである。広重の絵の蔵は、かなり整然で美し過ぎるような気もするが、桟橋に立つ女性の赤い帯と、白壁とのコントラストがなんともいい風情を醸し出している。なお、広重は、この蔵を「江都土産」でも描いているし、第43景 日本橋江戸ばし では、江戸橋越しにこれら蔵が確認できる。絵にしたくなる稀有な風景がここにあったのだろう。残酷なことにこれらの蔵の殆んどが関東大震災で倒壊し、姿を消すことになる。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
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