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第60景 浅草川大川端宮戸川

第60景 浅草川大川端宮戸川 巳七 安政4年(1857)7月 改印
あさくさがわ おおかわばた みやとがわ

miyatogawa.jpg

吉原(台東区千束付近)は今でも不便な場所なのだから、江戸時代は言わずもがなで、仕事帰りにふらっと立ち寄れるような場所ではない。つまり、もし行くなら、前々から予定を立てて、気合を入れて行くような場所であったのである。

では、どこで気合を入れたかというと、およそ、ここ柳橋が好まれた。柳橋というのは、江戸随一の繁華街である両国橋広小路に隣接しており、ここには隅田川上り下り、或いは飯田橋方面の内陸部に往き来する舟便のターミナルがあった。今でも、観光用の屋形船の多くが、ここを基地としているが、それは、この歴史を受け継いでのことだろう。

柳橋には、多くの料亭や舟宿が軒を連ねていて、大店(おおだな)による大名や高級旗本への接待にもよく使われたという。庶民が行けるような飲み屋も結構あったようだ。その柳橋が用意していたのが、吉原への高速シャトル便である。ここから、三谷堀まで、猪牙舟が148文で運行されていた。つまり、柳橋エリアは、一次会で気合を入れて、吉原での二次会に流れるには誠に都合のいい場所であったのである。

図1 
今でも舟宿の風情を残す柳橋界隈(2011年12月筆者撮影)

さて、柳橋には、吉原出発以外の目的で気合を入れる者達もいた。左淵に描かれている七夕の短冊のようなものは梵天といって、講の象徴として用いられたものである。大山詣の出発前、ここで水に浸かって身を清め、対岸まで渡るという水垢離が行なわれていた。そう、柳橋は、詣で出発前に気合を入れる場所としても知られていたのである。この絵はその儀式後、両国橋を渡って戻ってくる一行を描いている。このあと、濡れた梵天のお札を市中に配り、いざ大山へとなる。

なお、タイトルにある浅草川、大川、宮戸川とは、いずれも現隅田川の別称だ。場所により、名称が変わるようだが何故ここで敢えて列挙する必要があったのだろう。また、背景は大山でなく筑波山である。深い意図があるのか興味深い。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
図3

図4

図5
江戸時代の両国橋は、現在の橋より下流にあったことがわかる。

図6 
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