第77景 銕炮洲稲荷橋湊神社
第77景 銕炮洲稲荷橋湊神社 -安政4年(1857)2月改印
てっぽうず いなりばし みなとじんじゃ

広重の絵中央に架かる橋が稲荷橋で、その左に見える赤い柵が湊神社である。 この社の歴史は古く、平安時代初期に地元 (恐らくもっと内陸であろう) の農民が豊作を願って建てたのが始まりで、途中移転を繰り返し、寛永元年(1624)この地に落ち着いた。 ちょうどそのころ、このあたりで砲術家の井上正継と稲富直賢の両者が大筒(おおづつ)の評価試合を行い、こうしたことが原因で両家の間で刃傷事件も勃発したが、結局後年になって井上家が世襲で幕府鉄砲方にとりたてられた(江戸幕府役職集成 より)。 当時はまだ洲であったが、埋め立てが進んだ後も、こうした逸話にちなんで鉄砲洲という地名が残ったという。 また、ここの地形が鉄砲の銃身に似ていたからとの説もある。
その後、ここは、八丁堀と越前掘(亀島川)が隅田川へとつながる利便性から、江戸における水上物流のターミナルへと発展した。 諸国から集まった廻船の積荷は、ここで瀬取舟や、茶舟と呼ばれた小型のはしけ舟(運搬舟)に移され、堀をへて市中の河岸(かし)で荷揚げされる。 ちなみに、第76景の竹河岸は、ここから八丁掘を約1キロほど上ったところにある。 湊神社は、もともと豊作の神、その後は、新開拓地(埋立地)の発展を願う生成太神(うぶなすのかみ)となったが、海上守護の神として、諸国廻船の船乗りからも信仰を集めたらしい。
江戸名所図会にこの場所を違う角度(反対方向)から鳥瞰したものがある。 広重が掲題の絵を描いたのは、▲印あたりではないだろうか。
江戸名所図会より 「湊稲荷社」 (クリックで拡大)

江戸図77 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より】

現代図77

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第76景 京橋竹がし
■ 武衛流抱え撃ち
てっぽうず いなりばし みなとじんじゃ

広重の絵中央に架かる橋が稲荷橋で、その左に見える赤い柵が湊神社である。 この社の歴史は古く、平安時代初期に地元 (恐らくもっと内陸であろう) の農民が豊作を願って建てたのが始まりで、途中移転を繰り返し、寛永元年(1624)この地に落ち着いた。 ちょうどそのころ、このあたりで砲術家の井上正継と稲富直賢の両者が大筒(おおづつ)の評価試合を行い、こうしたことが原因で両家の間で刃傷事件も勃発したが、結局後年になって井上家が世襲で幕府鉄砲方にとりたてられた(江戸幕府役職集成 より)。 当時はまだ洲であったが、埋め立てが進んだ後も、こうした逸話にちなんで鉄砲洲という地名が残ったという。 また、ここの地形が鉄砲の銃身に似ていたからとの説もある。
その後、ここは、八丁堀と越前掘(亀島川)が隅田川へとつながる利便性から、江戸における水上物流のターミナルへと発展した。 諸国から集まった廻船の積荷は、ここで瀬取舟や、茶舟と呼ばれた小型のはしけ舟(運搬舟)に移され、堀をへて市中の河岸(かし)で荷揚げされる。 ちなみに、第76景の竹河岸は、ここから八丁掘を約1キロほど上ったところにある。 湊神社は、もともと豊作の神、その後は、新開拓地(埋立地)の発展を願う生成太神(うぶなすのかみ)となったが、海上守護の神として、諸国廻船の船乗りからも信仰を集めたらしい。
江戸名所図会にこの場所を違う角度(反対方向)から鳥瞰したものがある。 広重が掲題の絵を描いたのは、▲印あたりではないだろうか。
江戸名所図会より 「湊稲荷社」 (クリックで拡大)

江戸図77 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より】

現代図77

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