第108景 芝うらの風景
第108景 芝うらの風景 安政3年(1856)2月
しばうらのふうけい

江戸百景の殆どの解説では、右の石垣を将軍家の海のリゾートである浜御殿(現浜離宮)のものだと特定しているが、もう少し考察が必要だろう。それは、浜御殿の石垣は、約500メートルに渡り一直線であり、広重の第108景のように雁木状ではない。 だとすると右の石垣は何か? よく見ると、積み石の形状も微妙に違うのもわかる。なのでこれは特定の一屋敷を描いたのではなく、実際には、芝浦の海沿いに隣立する、浜御殿(浜離宮庭園)、紀州藩下屋敷(芝離宮庭園)、二本松藩蔵屋敷、会津藩下屋敷の石垣を重ねて描写したものではないだろうか? こう考えると、石垣のでっぱりの数も合い、雁木状に見える理由も説明できる。
また、沖に3基浮かぶ砲台場は、よく言われるように左より第五、第一、第四台場であると考えられなくもないが、そうすると第一が第四よりも後方となり不自然である。 もともと未完成で放って置かれた第四(現天王洲アイルシーフォートスクエア付近)は、安政地震での甚大な被害により一部水没して見えなかったのだと仮定すると、左から第六、第五、第一台場となる。 この場合には、デフォルメはされていながらも位置的には説明できる。 なお、品川州崎の御殿山下砲台場(現台場小学校付近)はちょうど鳥の群れの一羽に隠れて見えない。
広重の描いたこの鳥は、姿かたちや色合いから、「これなむ、都鳥(みやこどり)」であると考えられる。都鳥は、在原業平が、「名にし負はば いざこと問はむ都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と詠んだくらい、平安時代にはもうこのあたりに生息していた。この歌に因んで、隅田川に言問橋というのが架けられたが、その一方で、この鳥に因んで、お台場へとつながる路線が命名された。 「これなむ、ゆりかもめ」である。

伊勢物語で、この都鳥について「白い鳥で、嘴(くちばし)と脚が赤く、しぎの大きである」という説明があり、これはまさに、写真のユリカモメそのものであることから、現在では、都鳥とはユリカモメのことではないかと考えられている。 この絵を見て、レインボーブリッジを渡る路線にゆりかもめと名付けたのなら、命名者は、かなり趣味が良い。
ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線
江戸図108 【安政3年(1853)実測復刻江戸図より作成】

現代図108

しばうらのふうけい

江戸百景の殆どの解説では、右の石垣を将軍家の海のリゾートである浜御殿(現浜離宮)のものだと特定しているが、もう少し考察が必要だろう。それは、浜御殿の石垣は、約500メートルに渡り一直線であり、広重の第108景のように雁木状ではない。 だとすると右の石垣は何か? よく見ると、積み石の形状も微妙に違うのもわかる。なのでこれは特定の一屋敷を描いたのではなく、実際には、芝浦の海沿いに隣立する、浜御殿(浜離宮庭園)、紀州藩下屋敷(芝離宮庭園)、二本松藩蔵屋敷、会津藩下屋敷の石垣を重ねて描写したものではないだろうか? こう考えると、石垣のでっぱりの数も合い、雁木状に見える理由も説明できる。
また、沖に3基浮かぶ砲台場は、よく言われるように左より第五、第一、第四台場であると考えられなくもないが、そうすると第一が第四よりも後方となり不自然である。 もともと未完成で放って置かれた第四(現天王洲アイルシーフォートスクエア付近)は、安政地震での甚大な被害により一部水没して見えなかったのだと仮定すると、左から第六、第五、第一台場となる。 この場合には、デフォルメはされていながらも位置的には説明できる。 なお、品川州崎の御殿山下砲台場(現台場小学校付近)はちょうど鳥の群れの一羽に隠れて見えない。
広重の描いたこの鳥は、姿かたちや色合いから、「これなむ、都鳥(みやこどり)」であると考えられる。都鳥は、在原業平が、「名にし負はば いざこと問はむ都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と詠んだくらい、平安時代にはもうこのあたりに生息していた。この歌に因んで、隅田川に言問橋というのが架けられたが、その一方で、この鳥に因んで、お台場へとつながる路線が命名された。 「これなむ、ゆりかもめ」である。

伊勢物語で、この都鳥について「白い鳥で、嘴(くちばし)と脚が赤く、しぎの大きである」という説明があり、これはまさに、写真のユリカモメそのものであることから、現在では、都鳥とはユリカモメのことではないかと考えられている。 この絵を見て、レインボーブリッジを渡る路線にゆりかもめと名付けたのなら、命名者は、かなり趣味が良い。
ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線
江戸図108 【安政3年(1853)実測復刻江戸図より作成】

現代図108

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