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第84景 目黒爺々が茶屋

第84景 目黒爺々が茶屋 -安政4年(1857)4月改印
めぐろ じじがちゃや

第84景目黒爺爺が茶屋

”目黒のさんま”という落語はよく知られているが、これは将軍の鷹狩に大きく関係している。
鷹狩りは、野鳥やうさぎなどの小動物を放してそれを鷹や犬に捕まえさせる軍事鍛練と娯楽を兼ねたものだが、3代将軍家光は鷹狩を好み、碑文谷原や駒場野などの目黒近郊によく遊猟に出かけたという。 村々にて鷹狩が滞りなく行えるよう管理を行う役を通称、鷹番というが、目黒区内にはそれにちなんだ地名も残る。

目黒川の田道橋を渡り、現在の恵比寿ガーデンプレイスあたりに通ずる登り坂途中に1軒の茶屋があった。将軍家光(8代吉宗説あり)は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとることがあった。将軍は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を気に入り、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったという。実際に、爺々が茶屋主人の子孫にあたる島村家に、元文3年(1738)年4月13日の鷹狩の際に吉宗が訪れ、主人と言葉を交わした記録が残る(御成之節記録覚)。 こうした、逸話が”目黒のさんま”を生むきっかけとなったのだろう。

【目黒のさんま(あらすじ)】

例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、いつもながらの食事にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦の様子で帰った。

それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので前例がないとたいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。
びっくりしたのは将軍様。 美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。

「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」

江戸図84【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
082目黒爺A


江戸図84、現代図84合成 (茶屋付近拡大図)
082目黒爺AB 安政江戸図を見ると、茶屋坂の途中に祖父ヶ茶屋という名称で、茶屋が記載されているのがわかる。道の形状などからして、広重のこの絵は、茶屋の約25メートル北東にある家屋あたりから丘を見下ろしたものと考えられる。
なお、今でも田道橋を渡って山手通りを越え、中目黒裏の丘を登って鷹番まで続く郷愁感漂う一本の細道が残る。 忘れられた裏通りではあるが、今もなお将軍が鷹狩時に通った時とほとんど同じ道筋をたどれるのは貴重だ。





現代図84
082目黒爺B
* 現在、茶屋坂は、恵比寿南橋(アメリカ橋)と直接通じている。(2009/10/12)



*2012年9月8日初稿公開
*2014年8月31日GoogleMapに対応し再掲載
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