第83景 品川すさき
第83景 品川すさき -安政3年(1856)4月改印
しながわ すざき

目黒川は河口で約500メートルに渡り湾曲し、静かに江戸湾に注ぐ。そのあたりの細長い洲状の一帯を品川州崎と呼び、先端には、瀟洒な弁才天社(現利田神社)がある。 ここは、潮干狩りが楽しめる場所としても知られており、近郊のリゾートとして名所図にもしばしば登場する。 この広重の絵を見ても、堅田や松島を思わせる竜宮城のような美しい風景が広がっていたに違いない。
実は、この絵に関しては以前から指摘されてきたことがある。 それは、そこにあるはずのものが、描かれていないというのだ。 安政元年(1854)11月この弁才天の向こう側に御殿山下砲台場(現台場小学校一帯)が大規模な埋め立てにより完成した。江戸図83を見れば一目瞭然だが、極めて巨大であり弁財天の裏に隠れて見えないとは考えにくい。 台場は幕府の施設だから描かなかったというのが定説だが、一方、沖にはちゃんと3基の台場が確認できる。 これはどういうことか。 仮説としては2つ挙げられる。
1.砲台場は幕府の重要施設であるため、取締りを恐れて詳細を描くのを止めた。(通説)
2.この絵は、御殿山下砲台が着工される前に写生した実際の風景である。(筆者の推理)
これは繰り返しになるが、もし、取締りを恐れて台場を描かないということなら、沖に浮かぶ3基の台場も描く必要はないだろう。その方が安全だし、絵としてもすっきりする。沖の台場を松島仕立ての小道具に使ったというなら松尾芭蕉に怒られる。
では、台場着工前に書いたのか? この絵は、安政3年(1856)4月、つまり御殿山下台場が完成して約1年半後に改印を受けているのでノーだと言われそうだ。 だが、そもそも、改印というのは、出版許可を受けた証であって、絵を描いた時期を示すものではない。 すなわち、デッサンをした時期が改印の直前であるという先入観を捨ててみてはどうだろう。 そう、この絵は、改印の随分前、台場がまだそこになかった時期に描いたのである。
【州崎弁天(絵本江戸土産)広重より】
広重が以前に描いた絵に説明を加えた。 中央の盛り上がったところが、州崎と言われるエリア、右が江戸湾、その右下あたりが潮干狩りスポットだろう。左は目黒川で流れは前方へ。弁財天のあたりで海に出る。 その弁財天の右側が御殿山下砲台場の建設予定地だ。
おっと、では、沖の台場はどう説明するのか? 台場は、結局6基完成したが、実は建造時期に若干ズレがある。 件(くだん)の御殿山下台場は、 安政元年(1854)1月に着工し、同年11月に完成した。 実は、これは第2期工事であり、第一、第二、第三台場は、第1期工事としてそれより前の嘉永6(1853)年8月に着工し、翌安政元年(1854)4月に完成している。 沖の台場は位置関係から、第一、第二、第三台場と推定できるので、この絵のように、御殿山下に台場がなくても、沖には既に台場があった期間があるということである。 すなわち、安政元年1月直前なら、この絵が描けたということができる。 この場合、沖の台場は、現在鋭意工事中ということなのだが、よく見ると、台場付近に停泊した土嚢を積んだ重量船舶から、小型船が台場を行き来しているようにも見えなくもない。
景勝地である品川州崎に要塞が築かれる。 それは、日本橋の上に高速道路をかぶせる以上にナンセンスだ。 広重は台場着工計画を知って、駆け込み需要でこの絵を描いたとは考えられないだろうか? そして、名所江戸百景をシリーズ化するにあたり、郷愁の想いを込め、昔のネタに手を加えず、そのまま発表したのだろう。
■【歌川広重】江戸名所百選 - 品川すさき(610mm×915mm)
江戸図83【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】

広重の絵では中央に弁天社、そのすぐ右下に鳥海橋がある。もし通説通り、左下の旅籠が土蔵相模だとすると、この絵は相当デフォルメされた俯瞰図であると言える。
現代図83

八ツ山通りが、かつての目黒川の流れだ。台場小学校には、旧品川灯台の現物と台場記念碑がある。
しながわ すざき

目黒川は河口で約500メートルに渡り湾曲し、静かに江戸湾に注ぐ。そのあたりの細長い洲状の一帯を品川州崎と呼び、先端には、瀟洒な弁才天社(現利田神社)がある。 ここは、潮干狩りが楽しめる場所としても知られており、近郊のリゾートとして名所図にもしばしば登場する。 この広重の絵を見ても、堅田や松島を思わせる竜宮城のような美しい風景が広がっていたに違いない。
実は、この絵に関しては以前から指摘されてきたことがある。 それは、そこにあるはずのものが、描かれていないというのだ。 安政元年(1854)11月この弁才天の向こう側に御殿山下砲台場(現台場小学校一帯)が大規模な埋め立てにより完成した。江戸図83を見れば一目瞭然だが、極めて巨大であり弁財天の裏に隠れて見えないとは考えにくい。 台場は幕府の施設だから描かなかったというのが定説だが、一方、沖にはちゃんと3基の台場が確認できる。 これはどういうことか。 仮説としては2つ挙げられる。
1.砲台場は幕府の重要施設であるため、取締りを恐れて詳細を描くのを止めた。(通説)
2.この絵は、御殿山下砲台が着工される前に写生した実際の風景である。(筆者の推理)
これは繰り返しになるが、もし、取締りを恐れて台場を描かないということなら、沖に浮かぶ3基の台場も描く必要はないだろう。その方が安全だし、絵としてもすっきりする。沖の台場を松島仕立ての小道具に使ったというなら松尾芭蕉に怒られる。
では、台場着工前に書いたのか? この絵は、安政3年(1856)4月、つまり御殿山下台場が完成して約1年半後に改印を受けているのでノーだと言われそうだ。 だが、そもそも、改印というのは、出版許可を受けた証であって、絵を描いた時期を示すものではない。 すなわち、デッサンをした時期が改印の直前であるという先入観を捨ててみてはどうだろう。 そう、この絵は、改印の随分前、台場がまだそこになかった時期に描いたのである。
【州崎弁天(絵本江戸土産)広重より】

広重が以前に描いた絵に説明を加えた。 中央の盛り上がったところが、州崎と言われるエリア、右が江戸湾、その右下あたりが潮干狩りスポットだろう。左は目黒川で流れは前方へ。弁財天のあたりで海に出る。 その弁財天の右側が御殿山下砲台場の建設予定地だ。
おっと、では、沖の台場はどう説明するのか? 台場は、結局6基完成したが、実は建造時期に若干ズレがある。 件(くだん)の御殿山下台場は、 安政元年(1854)1月に着工し、同年11月に完成した。 実は、これは第2期工事であり、第一、第二、第三台場は、第1期工事としてそれより前の嘉永6(1853)年8月に着工し、翌安政元年(1854)4月に完成している。 沖の台場は位置関係から、第一、第二、第三台場と推定できるので、この絵のように、御殿山下に台場がなくても、沖には既に台場があった期間があるということである。 すなわち、安政元年1月直前なら、この絵が描けたということができる。 この場合、沖の台場は、現在鋭意工事中ということなのだが、よく見ると、台場付近に停泊した土嚢を積んだ重量船舶から、小型船が台場を行き来しているようにも見えなくもない。
景勝地である品川州崎に要塞が築かれる。 それは、日本橋の上に高速道路をかぶせる以上にナンセンスだ。 広重は台場着工計画を知って、駆け込み需要でこの絵を描いたとは考えられないだろうか? そして、名所江戸百景をシリーズ化するにあたり、郷愁の想いを込め、昔のネタに手を加えず、そのまま発表したのだろう。
■【歌川広重】江戸名所百選 - 品川すさき(610mm×915mm)
江戸図83【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】

広重の絵では中央に弁天社、そのすぐ右下に鳥海橋がある。もし通説通り、左下の旅籠が土蔵相模だとすると、この絵は相当デフォルメされた俯瞰図であると言える。
現代図83

八ツ山通りが、かつての目黒川の流れだ。台場小学校には、旧品川灯台の現物と台場記念碑がある。
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