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第85景 紀の国坂赤坂溜池遠景

第85景 紀の国坂赤坂溜池遠景 安政4年(1857)9月 改印
きのくにざか あかさかためいけ えんけい

第85景紀の国坂赤坂溜池遠景

江戸百景のタイトルには、時々、ちょっとおかしいなぁと思えるものもあるが、これもそうである。この武家の行列が紀の国坂であることは、後で述べる理由もあっては間違いないのだが、だとすると左に描かれているのは弁慶堀だし、遠景に赤坂方面を望んでいることは分かるのだが溜池は見えない。

絵本江戸土産に同じ場面の紀国坂の項 (図85) があり、その挿絵の遠景には溜池が描かれている。 この著作は結構ヒットしたらしいので、江戸百景版元の魚栄がそれを意識して、紀伊の国坂と言えば、やはり溜池とセットでなければという判断でこのタイトルにしたのか。 また 「暮らしの手帖社版 今とむかし広重名所江戸百景帖」 に掲載されている第85景には、中央のたて看板右下にぽつんと溜池が "加筆" されており、わざわざそれが溜池である説明まで入れてつじつまを合わせている。 「第85景 紀の国坂赤坂溜池遠景」には、溜池アリ、ナシの両バージョンが存在するのか。 いろいろ調べてみたが、この点は議論されてきてないようなのでわからない。 

図85 絵本江戸土産より 紀国坂
江戸土産紀国坂

さて、この坂が紀の国坂であるとする理由はいくつかあるが、右端と、中央奥に2つ描かれている火の見櫓に注目したい。 両方とも櫓(やぐら)全体に木の覆いがあるので、双方とも"大名火消"か"定火消"の武家櫓であることがわかる。 "町火消"の櫓は骨組みが露出する意匠である。 (第6景 馬喰町音羽の馬場 参照)
この近辺で武家の火消役を探すと2家ある。旗本定火消の米津家と小出家だ。 前者は、元赤坂1丁目4で現豊川稲荷、後者は赤坂1丁目10で現アメリカ大使館、霊南坂上にあたる。 この絵が紀の国坂から東南を見ているということであれば、位置関係も距離感も妥当である。

写真85 今昔対照江戸百景より 紀の国坂
紀伊国坂002

ついでに、この坂は登り坂なのに行列が下っているのは変だという指摘もある。 しかし、大正8年(1919)に出版された石井研堂の今昔対照江戸百景に大正時代のこの場所の写真が掲載されているのだが(写真85)、よく見ると、一部下りになっているように見えないだろうか。 恐らくここは土橋のようになっていて、下に紀州家(大正時には赤坂離宮)を囲む堀から、弁慶堀へそそぐ水路があったと想像する。 ここは、坂下の広場のようになっていて江戸図85でもその位置を確認できる。 この絵は案外写実的なのかも知れない。  

今昔比較85 (画面クリックで拡大)
紀之国新旧

紀ノ国坂途中で筆者が撮影した現在の同所である。中央左奥に霞んで見える高層ビル(プルデンシャルタワー)の右側一直線先が霊南坂、すなわち旗本定火消小出家の火の見櫓のあった場所であるので、撮影視点は広重のそれとほぼ同等であると考えられる。 今もなお当時の面影の残る貴重な場所である。

江戸図85 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
085紀の国坂赤坂溜池遠景A

現代図85
085紀の国坂赤坂溜池遠景B


関連する風景
第6景 馬喰町音羽の馬場

   
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