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第90景 猿わか町よるの景

第90景 猿わか町よるの景 安政3年(1856)9月改印
さるわかちょう よるのけい

第90景猿わか町よるの景

江戸時代、娯楽というのは風紀の乱れの原因になるという理由で、よく取り締まりの対象となり、完全廃止とまでは行かなくても、縮小されたり遠隔地への追放の憂き目にあった。吉原も元来、現在の人形町交差点の北東にあったが、明暦の大火(1657年)後、8キロも北東の現在の場所に移転させられた。 しかし江戸の歓楽街は、決して滅びることはなかった。

天保12年 (1841年) 10月、堺町・葺屋町一帯(注)で起こった火災で、歌舞伎の中村座と市村座が全焼、浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。折りしも幕府は、天保の改革の推進中であり、綱紀粛正の一環として、芝居小屋の同地での再建を禁じ、翌年、浅草聖天町(現在の台東区浅草6丁目一帯)への強制移転を命じた。ついでに、木挽町(現在の東銀座、歌舞伎座付近)にあった河原崎屋もとばっちりを受け、同地への移転を余儀なくされた。

遠隔地に新設されたこの芝居町は、中村座系の元祖である、猿若(中村)勘三郎に因んで、ノスタルジックに猿若町と名付けられた。 しかし、あまりにも僻地であったため、最初の頃は客が入らず、経営上相当苦労したようだ。 しかし、中村座、市村座、河原崎座(森田座)のいわゆる江戸三座が、役者や作者の相互貸し借りなどの新機軸を打ち出し演目を充実させると、再び人気に火が点き、次第に客足が戻ってくる。そして、浅草寺参拝や芝居見物後の吉原遊び、或いは小塚原の処刑見物などとあわせ、浅草界隈は往時の人形町を彷彿させる一大歓楽街に成長した。

(注)中村座と市村座があった堺町・葺屋町は、現在の人形町交差点の西北に位置し、旧吉原と隣接していた時期があった。 事実、吉原移転直前までの数年間、人形町は、遊郭と芝居小屋が併設された江戸随一の娯楽拠点であったという。

(猿若町の詳細地図)
河原崎座の記載があるので、天保13年 (1842年)から安政2年(1855)迄の地図と推定される。
猿若詳細

第90景の右手前には、森田座の文字が見える。安政2年(1855)12月に、河原崎座の興業権が森田座に移っているので、広重のこの絵は、その直後から改印を受けた安政3年(1856)9月までの間に描かれたものだということがわかる。ちなみに、森田座は翌年の安政4年(1857)に守田座に改名している。

広重の絵によく月影は登場するが、この絵は人々や犬の影法師がくっきりと幻想的に描写され、本当に素晴らしい作品だ。 ゴッホの「夜のカフェテラス」は月影こそ無いが、イメージや構図は、この絵にインスパイヤされたものという。なるほど、芝居小屋に併設された茶屋の縁側は、カフェテラスと言えなくもない。

今昔写真90 (画面クリックで拡大)
猿若今昔
猿若碑

写真上右、手前から2台目のクルマの横に「守田座跡」の碑(写真下左)があることから、ほぼ広重と同じ視点で撮影できたと考える。猿若町は、現在の浅草6丁目一帯なのだが、旧町名の表記もありうれしい。

■ 手ぬぐい 梨園染 猿若町 夜の景
■ 夜のカフェテラス ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(複製名画・F6号)

江戸図90【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
090猿わかよるの景A

現代図90
090猿わかよるの景B
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