第95景 鴻の台とね川風景
第95景 鴻の台とね川風景 -安政4年(1857)1月
こうのだい とねがわふうけい
徳川家康が江戸に入る以前、利根川は隅田川を経由して江戸湾に注いでいた。 江戸での洪水を防ぐため、流れを銚子筋に通す計画を立てると同時に、まずは、文禄3年(1594)から江戸近郊での河川繋ぎ換え工事を行い、水系を分散して江戸湾に放出させるようにした。 最終的には寛文5年(1655)までに、流れを集中的に放出できるよう、新たに大規模な河川を造営する。 これが現在の江戸川(河口は旧江戸川)であるから、江戸時代の人がこの川を "とね川″と呼んでも、決して勘違いというわけではない。 しかし、こんな大河をユンボーもない時代に人工で掘ったとは驚きだ。
さて、 タイトルに鴻の台 (こうのだい) とあるが、これは仮借(当て字)で今も地名の残る千葉県市川市国府台 (こうのだい)のことを指している。 国府台というくらいだから、ここには国の行政の中心地である国府 (こう) があった。 この下総国の国府は、古代は奥州方面への要所、中世以降は、鎌倉や江戸に近いという場所柄、さまざまな歴史の舞台になってきた。
簡単に年代順に挙げておくと、
- 律令制がひかれる前から国造の治める豪族の郷があったと考えられる。 また古墳も多く確認されている。 手児那伝説はこの時代。 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 参照
- 645年の大化の改新以降にここに下総国府が置かれると同時に国分寺、国分尼寺も建立され、小京都のような条里制の都市が造られる。
- 939年 関東に独立国家建設を目指す平 将門に攻撃されて一時攻め落とされるが、将門の乱の鎮圧後、とりあえず復興する。 しかし、1030年頃には将門と同じような野望を持った平 忠常が乱を起こし、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)の国府の力は急速に衰える。
- 治承4年(1180)南総に逃れていた源頼朝が、下総国府に入り、ここで2万7,000余騎を集め、鎌倉へ出陣、武家政権確立の先駆けの地となる。
- 文明11年(1479) 扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が、千葉氏討伐の際に、この地に砦を築いたのがきっかけとなり、その後鴻之台城 (こうのだいじょう) が設置される。
- 鴻之台城に陣を引いていた房総里見氏を、天文7年(1538)及び永禄7(1564)年の2回に渡り、小田原北条氏が攻撃し、結局里見氏は敗走。 鴻之台城は、北条氏管轄となる。(第一次、第二次国府台合戦)
- 天正18年(1590) 豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、鴻之台城は徳川氏預かりとなるが、江戸を見下ろせる要塞は危険との理由で廃止され、しだいに忘れられた荒城となる。
右の絵は、「里見八献伝・芳流閣の場」 (豊原国周画)
滝沢馬琴によって描かれた 「南總里見八犬傳」 では、里見軍は 行徳口・国府台・洲崎沖の3ヶ所を舞台としたとされる関東大戦で八犬士の活躍により大勝利を挙げることとなるが、これは史実ではない。 里見氏は、江戸初期まで館山藩主として存続するが、その後鳥取に流され、失意のまま断絶する。 最後の当主の忠義の死に際し、殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称され、それが八犬伝諸士のモデルになったと言われている。
-寛文3年(1663)、鴻之台城の跡地に総寧寺が移転してくる。そして、真間の手児奈伝説や紅葉の景勝地、また里見八犬伝ゆかりの地ということで、江戸でもないのに、江戸名所図会や江戸名所百景に描かれるような江戸名所となる。
-明治になって、国府台一帯は、陸軍教導団 (下士官養成学校)や砲兵部隊、並びに陸軍病院などが置かれ、再び軍事要塞の体を見せるが、戦後はその流れを汲む学校や病院の町となる。 国府台城址は、洋風の里見公園として整備され、桜の名所となっている。
この高台に歴史あり、である。江戸名所百景の舞台としては、一番物語が多い場所なのではないだろうか。
現代図95 (Gooマップより作成)
江戸名所図会などにもほぼ同じ構図の絵があり、このように江戸川に張り出した高い崖が描かれている。現在は見当たらない崖なのだが、 昭和初期のこの地の航空写真を見ると現代図95に矢印を記したあたりに、崖の名残と思われる張り出したラインが確認できる。従って、広重のデッサン地は現代図95の*印のあたりであると推定する。この角度だと、広重の図のように右側に富士山が見えてもおかしくない。
写真95 【昭和22年 国府台近辺上空写真(Gooマップより)】
関連する風景
第94景 真間の紅葉手古那の社継はし
■現代語訳南総里見八犬伝(上)
■現代語訳南総里見八犬伝(下)
こうのだい とねがわふうけい

徳川家康が江戸に入る以前、利根川は隅田川を経由して江戸湾に注いでいた。 江戸での洪水を防ぐため、流れを銚子筋に通す計画を立てると同時に、まずは、文禄3年(1594)から江戸近郊での河川繋ぎ換え工事を行い、水系を分散して江戸湾に放出させるようにした。 最終的には寛文5年(1655)までに、流れを集中的に放出できるよう、新たに大規模な河川を造営する。 これが現在の江戸川(河口は旧江戸川)であるから、江戸時代の人がこの川を "とね川″と呼んでも、決して勘違いというわけではない。 しかし、こんな大河をユンボーもない時代に人工で掘ったとは驚きだ。
さて、 タイトルに鴻の台 (こうのだい) とあるが、これは仮借(当て字)で今も地名の残る千葉県市川市国府台 (こうのだい)のことを指している。 国府台というくらいだから、ここには国の行政の中心地である国府 (こう) があった。 この下総国の国府は、古代は奥州方面への要所、中世以降は、鎌倉や江戸に近いという場所柄、さまざまな歴史の舞台になってきた。
簡単に年代順に挙げておくと、
- 律令制がひかれる前から国造の治める豪族の郷があったと考えられる。 また古墳も多く確認されている。 手児那伝説はこの時代。 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 参照
- 645年の大化の改新以降にここに下総国府が置かれると同時に国分寺、国分尼寺も建立され、小京都のような条里制の都市が造られる。
- 939年 関東に独立国家建設を目指す平 将門に攻撃されて一時攻め落とされるが、将門の乱の鎮圧後、とりあえず復興する。 しかし、1030年頃には将門と同じような野望を持った平 忠常が乱を起こし、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)の国府の力は急速に衰える。
- 治承4年(1180)南総に逃れていた源頼朝が、下総国府に入り、ここで2万7,000余騎を集め、鎌倉へ出陣、武家政権確立の先駆けの地となる。
- 文明11年(1479) 扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が、千葉氏討伐の際に、この地に砦を築いたのがきっかけとなり、その後鴻之台城 (こうのだいじょう) が設置される。
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- 天正18年(1590) 豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、鴻之台城は徳川氏預かりとなるが、江戸を見下ろせる要塞は危険との理由で廃止され、しだいに忘れられた荒城となる。

右の絵は、「里見八献伝・芳流閣の場」 (豊原国周画)
滝沢馬琴によって描かれた 「南總里見八犬傳」 では、里見軍は 行徳口・国府台・洲崎沖の3ヶ所を舞台としたとされる関東大戦で八犬士の活躍により大勝利を挙げることとなるが、これは史実ではない。 里見氏は、江戸初期まで館山藩主として存続するが、その後鳥取に流され、失意のまま断絶する。 最後の当主の忠義の死に際し、殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称され、それが八犬伝諸士のモデルになったと言われている。
-寛文3年(1663)、鴻之台城の跡地に総寧寺が移転してくる。そして、真間の手児奈伝説や紅葉の景勝地、また里見八犬伝ゆかりの地ということで、江戸でもないのに、江戸名所図会や江戸名所百景に描かれるような江戸名所となる。
-明治になって、国府台一帯は、陸軍教導団 (下士官養成学校)や砲兵部隊、並びに陸軍病院などが置かれ、再び軍事要塞の体を見せるが、戦後はその流れを汲む学校や病院の町となる。 国府台城址は、洋風の里見公園として整備され、桜の名所となっている。
この高台に歴史あり、である。江戸名所百景の舞台としては、一番物語が多い場所なのではないだろうか。
現代図95 (Gooマップより作成)

江戸名所図会などにもほぼ同じ構図の絵があり、このように江戸川に張り出した高い崖が描かれている。現在は見当たらない崖なのだが、 昭和初期のこの地の航空写真を見ると現代図95に矢印を記したあたりに、崖の名残と思われる張り出したラインが確認できる。従って、広重のデッサン地は現代図95の*印のあたりであると推定する。この角度だと、広重の図のように右側に富士山が見えてもおかしくない。
写真95 【昭和22年 国府台近辺上空写真(Gooマップより)】

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