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第70景 中川口

第70景 中川口 安政4年(1857)2月 改印
なかがわぐち

第70景中川口

物資の流通が水運中心であった江戸時代、奥州方面から江戸へと向う船は、鹿島灘を越えて房総半島沿岸まで来ると、なんといったん伊豆下田まで帆走し、風を待って江戸湾に戻ってくるというルートを採らざるをを得なかった。このコースは、風待ちの日数がかかるうえ、海難事故による犠牲が後を絶たなかったため、どうしてもその対策が急がれた。そこで、那珂湊、或いは銚子まで来た舟は、積荷をいったん小型船に積み替え、霞ヶ浦経由で利根川を関宿(野田市)まで遡り、今度はぐるりと江戸川づたいに江戸方面に戻ってくるというルートが開拓された。これを奥川廻し(おくかわまわし)という。(衛星写真70参照) 今では考えられないような遠回りであるが、前述の伊豆廻りよりずっと安全であったため、おおいに利用されたという。 なお、江戸川は隅田川の洪水回避と、この奥川廻しの為に掘られた人工の河川だ。これを話題にする度に、先人のエネルギーに驚愕せざるを得ない。

衛星写真70
奥川廻し地図

さて、この舟が行徳を越えて、江戸に入るためには、最後に小名木川を通ることになる。その小名木川の入り口が、第70景のタイトルにある中川口であり、そこには中川番所と言われる舟番所が置かれていた。 第70景の左下に番所の木戸らしきものが見える。もともと、小名木川の舟番所は、隅田川の接続地点である万年橋付近にあったが、下総方面から深川地域に入る荷の取り締まりの必要性から、寛文1年(1661)に、ちょうど反対側のここ中川口に移動した。中川番所は、奥川廻しの流通統制は言うまでもなく、軍事監視拠点の意味合いもあり、番所設立時のお触書には、女子はいかなる理由があっても通さないというくだりがあった。すなわち、箱根関所と同じく、出女 (大名の家族が勝手に国へ逃げ帰ること)を厳しく警戒していたということが言える。 ちなみに、この中川番は、3000石以上の旗本から選ばれるなど、なかなか格式が高い。3000石と言えば、町奉行や勘定奉行と同クラスだ。幕府がいかにこの関所を重視していたのがわかる。

ただ、そんな厳しい関所でも、お参りに行くという理由なら女子でもokという例外もあり、江戸初期の厳しい掟も時代が下るにつれてだんだんと形骸化して行ったようだ。 そんな厳しかったら、真間の紅葉も見に行けないし、ばらばら松も見られない。 江戸後期には、舟頭が「通りま~す」と言えば、役人が、「通れ~っ」ってな具合だったようである。(中川番所資料館の展示説明より) この絵を見ても、旅人の舟が関所に接岸する気配はない。 


江戸図70 【安政3年(1856年)実測復刻江戸図より作成】
070中川口a

現代図70
070中川口b
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