第107景 深川洲崎十万坪
第107景 深川洲崎十万坪 安政4年(1857)5月 改印
ふかがわすざき じゅうまんつぼ

■ 歌川広重『深川洲崎十万坪』木版画
江戸名所百景には、州崎という名所が2箇所描かれている。ひとつめは品川洲崎で、もうひとつがこの深川洲崎である。この両方の州崎は、地名からもわかるように、洲が帯状にだら~んと伸びた岬であり、先端に弁天が奉られているという点で共通している。品川州崎が、目黒川の河口に形成された自然の地形であるのに対し、深川はそもそも人工の埋立地であるから、深川の州崎がどういう経緯で形成されたのかはわからない。 後述するが、江戸中期以降、深川洲崎そのものが波除の防波堤として整備されることになる。
深川洲崎が、どうして名所であったのかと言うと、洲崎弁天(現州崎神社)が有名なのと、ここから見える景色が素晴らしかったからである。 そもそも弁天は水神として水辺に祭られることが多く、ここ猟師町の深川でも元禄の創建時より海難除けとして深く信仰され、茶屋なども並びたいそう賑わった。ここに伊勢屋という蕎麦屋があり、ざるそばの発祥地であることは、そば好きにはよく知られている。 なお、このあたりから見える景色は、房総半島から三浦半島にかけて江戸湾全景をまさに抱きかかえるように望める絶景で、また東から大変美しい朝日が拝めるということで評判であったらしい。もしかして、現在の地名の東陽町とは、これに因んでつけられたのではないだろうか。
(江戸名所図会より州崎弁財天社)

さて、本来深川洲崎を描くのなら、前述した2点を主題にしそうなものだが、この107景は、敢えて深川洲崎十万坪というタイトルで、筑波山を背景に鷲と同じ視点で内陸側(埋立て地側)を鳥瞰している。 手前は海なので、洲崎弁天の鳥居くらい描いてもよさそうだが、手がかりになるものは全くない。 左中央付近に細い棒状のものが何本も立っているが、それは木場の材木か? しかし、いかにも荒涼として寒々しい絵だ。
これは想像に過ぎないが、広重がモチーフとしたものは、過去にこの洲崎を襲った悲劇なのではないだろうか? 寛政3年9月4日(1791年10月1日)、広重がこの絵を描いた約65年前、この洲崎一帯を大津波が襲い、州崎弁天はもちろん、沿岸の三百数十軒の人家を呑み込み多数の死者を出す惨事が発生した。幕府はその後、津波に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止して空き地を設けると同時に、海沿いに防波堤を築く。この防波堤の両端に津波警告のためと、この惨劇を後世に残す意味で波除碑(なみよけひ)が作られ、その片方が今も洲崎神社境内に保存されている。

(写真は2009年12月筆者撮影)
最後に、上部に大きく描かれている鷲が見つめているものに注目したい。樽のようなものが浮かんでいるが、これは棺おけである。 この棺おけの主は誰か。もちろん、前述の津波の犠牲者の可能性もある。 しかし、この辺りは、殺伐とした場所であったことから、よく遺体が捨てられたり、土座衛門が流れてきたりするような場所だったらしい。 怪談、「妲己のお百」のクライマックスの舞台は、まさにここだし、「東海道四谷怪談」の戸板返しの舞台(←関連記事参照)も至近の隠亡掘である。 つまり、棺おけに入れて供養しなければならない無縁仏は、いくらでもいたわけだ。 第107景深川洲崎十万坪は、美しい名画である反面、江戸の裏事情を雄弁に語ったまさに「怪画」であると言える。 ■参考図書 江戸東京怪談文学散歩 (角川選書)
江戸図107【安政3年(1856年)実測復刻江戸図】

洲崎拡大図(安政)

現代図107

洲崎拡大図(平成)

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ふかがわすざき じゅうまんつぼ

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深川洲崎が、どうして名所であったのかと言うと、洲崎弁天(現州崎神社)が有名なのと、ここから見える景色が素晴らしかったからである。 そもそも弁天は水神として水辺に祭られることが多く、ここ猟師町の深川でも元禄の創建時より海難除けとして深く信仰され、茶屋なども並びたいそう賑わった。ここに伊勢屋という蕎麦屋があり、ざるそばの発祥地であることは、そば好きにはよく知られている。 なお、このあたりから見える景色は、房総半島から三浦半島にかけて江戸湾全景をまさに抱きかかえるように望める絶景で、また東から大変美しい朝日が拝めるということで評判であったらしい。もしかして、現在の地名の東陽町とは、これに因んでつけられたのではないだろうか。
(江戸名所図会より州崎弁財天社)

さて、本来深川洲崎を描くのなら、前述した2点を主題にしそうなものだが、この107景は、敢えて深川洲崎十万坪というタイトルで、筑波山を背景に鷲と同じ視点で内陸側(埋立て地側)を鳥瞰している。 手前は海なので、洲崎弁天の鳥居くらい描いてもよさそうだが、手がかりになるものは全くない。 左中央付近に細い棒状のものが何本も立っているが、それは木場の材木か? しかし、いかにも荒涼として寒々しい絵だ。
これは想像に過ぎないが、広重がモチーフとしたものは、過去にこの洲崎を襲った悲劇なのではないだろうか? 寛政3年9月4日(1791年10月1日)、広重がこの絵を描いた約65年前、この洲崎一帯を大津波が襲い、州崎弁天はもちろん、沿岸の三百数十軒の人家を呑み込み多数の死者を出す惨事が発生した。幕府はその後、津波に備えて洲崎一帯に家屋の建築を禁止して空き地を設けると同時に、海沿いに防波堤を築く。この防波堤の両端に津波警告のためと、この惨劇を後世に残す意味で波除碑(なみよけひ)が作られ、その片方が今も洲崎神社境内に保存されている。

(写真は2009年12月筆者撮影)
最後に、上部に大きく描かれている鷲が見つめているものに注目したい。樽のようなものが浮かんでいるが、これは棺おけである。 この棺おけの主は誰か。もちろん、前述の津波の犠牲者の可能性もある。 しかし、この辺りは、殺伐とした場所であったことから、よく遺体が捨てられたり、土座衛門が流れてきたりするような場所だったらしい。 怪談、「妲己のお百」のクライマックスの舞台は、まさにここだし、「東海道四谷怪談」の戸板返しの舞台(←関連記事参照)も至近の隠亡掘である。 つまり、棺おけに入れて供養しなければならない無縁仏は、いくらでもいたわけだ。 第107景深川洲崎十万坪は、美しい名画である反面、江戸の裏事情を雄弁に語ったまさに「怪画」であると言える。 ■参考図書 江戸東京怪談文学散歩 (角川選書)
江戸図107【安政3年(1856年)実測復刻江戸図】

洲崎拡大図(安政)

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この記事へのコメント
加藤三雄 : 2012/11/16 (金) 18:53:48