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第102景 蓑輪金杉三河しま

第102景 蓑輪金杉三河しま 安政4年(1857)5月 改印 
みのわかなすぎ みかわじま

第102景蓑輪金杉三河しま

将軍家の恒例行事に鷹狩があるが、その中でも寒の入りに行われる「鶴御成り」と呼ばれる鷹狩は、特に格式が高かった。鷹を放って捕らえた鶴は、その場で将軍の御前で鷹匠により刀でさばかれ、腑に塩を詰めてそのまま京に運ばれ朝廷に献上される。この鶴の肉は新年三ヶ日の吸い物になる重要な逸品であるため、当日、鶴をとらえた鷹匠には、金五両、鷹をおさえたものには金三両の褒章、鶴をとらえた鷹はその功によって紫の総(ふさ)をつけて隠居できるという名誉退職の慣わしまであった。

その鷹狩に供される鶴を飼いならす鶴御飼場が、品川目黒筋、小松川筋、そしてこの絵の舞台となっている三河島にあった。いずれも四方にひろい濠をめぐらして鳥見役という専任の役人を置き、下飼人が毎日三度ずつ精米五合をまき、舞い降りてきた鶴をならすという手の入れようだったという。

さて、こうしたファンタスティックな作品は、「第107景 深川洲崎十万坪」や「第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火」でも見られるが、そもそもこの三河島一帯は、実際に丹頂鶴の飛来地であり、また保護区域でもあったため、本当にこうした光景が見られたのかもしれない。といっても厳しく出入りを監視されていた場所なので、広重がこうも都合よく、その場でツガイを写生できたということはないだろう。 なお、畑で桶を担ぐのは、記録に残る下飼人の「餌まきの平四郎」と言われている。鶴の視線の先が彼であるのがなんとも面白い。ちなみに、三河島一帯の畑は、当時、三河島菜と呼ばれる漬物用の野菜の名産地としても知られていたという。

描写地点の特定は難しい。実際に蓑輪(三ノ輪)はもっと東側なのだが、三河島に鶴飼場があったことと、遠景に見える集落を浄正寺近辺であると仮定し、江戸図102の印地点であると推定した。

江戸図102【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
102蓑輪金杉三河しまa

現代図102
102蓑輪金杉三河しまb

関連する風景
第107景 深川洲崎十万坪
第118景 王子装束ゑの木大晦日の狐火
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