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第68景 深川八まん山ひらき

第68景 深川八まん山ひらき 安政4年(1857)8月 改印
ふかがわはちまん やまびらき

第68景深川八まん山ひらき

山開きというのは、お寺の行事なので、深川八幡山開きというのは本当はおかしい。 実は、この絵は、永代寺の庭園を描いたもので、タイトルにある深川八幡(富岡八幡宮)とは、その永代寺の敷地内にあった鎮守神である。 つまり、本当は寺の方がメインなのに、同居する「深川の八幡様」の方が一般に馴染みがあったので、こういうタイトルになったのだろう。この永代寺の庭園は、普段は非公開なのだが、毎年旧暦の3月21日からの「山開き」の期間、すなわち空海の命日からの数日間に一般開放されていた。ここは、絵にあるような池を中心に、傍らに甲山(富士塚?)を配したなかなかの名園で、毎年この時期になると風流人を気取る庶民の人気のスポットとなっていたようである。江戸にはこうした日本庭園がたくさんあったとはいえ、その多くが大名庭園で非公開だから、この名園公開は当時の人にとって貴重なアトラクションであったに違いない。

八幡宮が何故永代寺より馴染みがあったかと言うと、山王祭、神田祭とともに、江戸三大祭りのひとつである深川八幡祭が有名であったからに他ならない。この深川八幡祭は、大小120数基の神輿が次から次へと登場し、観衆が担ぎ手に清めの水を浴びせて、皆で盛り上がる壮観な祭りとして知られている。深川にゆかりの深い、紀伊国屋文左衛門が寄進した日本一大きな神輿三基が登場すると、祭りは最高潮に達したという。といっても、江戸時代の神輿は、担ぐのではなく山車に載せて引っ張っるのが主流であったので、イメージは第51景の山王祭に近いのかもしれない。

話を元に戻すが、広重は敢えて「動」の八幡祭を描かず、「静」の永代寺を描いたところに風流人としてのこだわりがあったのだろうか? 江戸百景の中で、風流絵の代表と考えられる木母寺秋葉神社の風景によく似ている。また近所の木場もそうだが、深川は猟師町であるにもかかわらず、実は江戸屈指の風流処だったのかもしれない。

江戸図【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
068深川はちまんa

現代図
068深川はちまんb

関連する風景
第29景 砂むら元八まん
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この記事へのコメント

s.valley : 2010/11/27 (土) 14:05:49

始めまして。
「甲山(富士塚)」とありますが、この二つは別物です。
江戸名所図会に永代寺山開という絵があり、
庭園の中央に甲山という築山が描かれています。
これが広重の絵と同じ築山、一方富士塚は250m離れた
数矢小学校の付近にあったそうです。
広重は深川公園の入り口付近から、北かやや北西の方角に
向いて描いています。
つい知ったかぶりをしましたが、小生も参加している
名所江戸百景めぐりからの受け売りでした。

kutaron : 2010/11/28 (日) 16:30:51

ご指摘どうもありがとうございます。と言うことは、広重は富士塚でなく、甲山を描いたということなのですね。冨岡八幡宮の富士塚と、江戸名所図会の「永代寺山開」左上に見える甲山とは、同じものだと思っていました。江戸名所図会には、三十三間堂らしき建造物も描かれていて、甲山の位置は、富士塚のあった数矢小学校付近と一致することからも、疑問に思ったこともありませんでした。またいろいろ教えていただければ幸いです。ありがとうございます。

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