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第69景 深川三十三間堂

第69景 深川三十三間堂 安政4年(1857)8月 改印
ふかがわ さんじゅうさんげんどう

第71景深川三十三間堂

江戸には、何でも揃っていたということだろう。三十三間堂といえば、京都の専売特許のような気がするが、実は江戸にもあった。 江戸時代初期、東山の三十三間堂では、「通し矢」といって、長さ約120メートルの本堂沿いに矢を射る武芸大会が流行していた。三代将軍徳川家光は、江戸にもこうした場所をということで、寛永19年(1642)、蓮華王院のオリジナルを模した「江戸三十三間堂」を浅草に建てさせた。 ここでは、京都の 「通し矢」 同様、飛距離、連射回数、射矢数などを競う試合が連日のように催され、江戸でも弓道鍛錬が大流行したという。

この「江戸三十三間堂」が最初に建てられたのは、前述のように浅草で、現東本願寺北西付近であった。その後、元禄11年(1698年)に発生した大火(勅額火事)で焼失し、元禄14年(1701)、深川の富岡八幡宮東側に再建されることになる。 広重の描いたのは、もちろん深川の三十三間堂である。 堂の向こうに流れるのは、三十間川で、そこはもうほぼ木場の領域だ。

さて、この 「深川三十三間」だが、実は、安政2年(1855)の安政大地震でその約三分の一を失い、その後、倒壊部分は再建されぬまま、結局、明治5年(1872)に堂を有する東普門院の廃寺とともに壊されてしまう。 この広重の絵の描かれたのが、改印時期の直前であったとすると、それは、地震後の安政4年(1857)の春から夏だということになる。つまり、広重がこの絵を描いた時には、「深川三十三間堂」は、完全な姿ではなかったというわけだ。もし、倒壊した様子を描いてくれさえすれば、台場建築のために崩された御殿山の様子を描く第28景と同様、史料価値がもっと高かったのになぁと少し残念ではある。地震で倒壊する前の雄姿なら、江戸名所図会でしっかり知ることができるからだ。

(江戸名所図会より三十三間堂) 
三十三間図会

現在、江戸三十三間堂の浅草旧地には、矢先稲荷神社があり、深川の跡地付近には、江東区立数矢小学校がある。いずれも矢に因んだ名称であり、こうした名前が今にひっそり残るのはうれしい。

江戸図69 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
069三十三間堂a

現代図69
069三十三間堂b
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