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第9景 筋違内八ッ小路

第9景 筋違内八ッ小路 安政4年(1857)11月 改印
すじかいうち やつこうじ

第9景筋違内

江戸城の守りとして、外濠と内濠、一部城内のものを含めて、見附と呼ばれる堅牢な城門は三十六あったと言われている。 基本的に、濠に面した櫓付の見附には2つの門扉があり、橋を渡って1つ目の門扉を抜けると石垣で囲まれた空間に阻まれ、それを抜ける為には、さらに直角に曲がって、2つ目の門扉を通らなければならない。大軍が一気に攻め込めないようにする軍事上の防御策で、これを枡形造りと言う。筋違橋御門(すじかいばしごもん)もこの見附のひとつであり、元々は加賀の前田氏が造営し、その家中が守備についていた城門だ。

筋違の名称は、江戸城から上野寛永寺に続く御成道と、日本橋から始まり、本郷方面へと続く中山道がちょうど交差する場所なのでこう呼んだのだという。この筋違橋門を抜けて外濠の内に入ると広大な広場が現れる。ここは、前述の2つの筋の出入りを含む計8つの道が変則的に交差することから、八ッ小路(八辻ヶ原とも)と言われていた。 ここは、武家地と町人地の境界なので、大火の際に延焼を防ぐ火除地としての役目もあったのだろう、実に広い。 広重は、筋違橋門は描かず、この八ッ小路の中央付近上空から広場の西北側、約1/4の部分を俯瞰したにすぎない。 図のおよそ中央にある小屋(番所)の裏側が昌平橋で、右奥に見えるのが神田明神だ。

この広場がさらに有効利用されるのは、明治以降になってからである。明治45年(1912)、ちょうど筋違橋門あたりに万世橋駅が作られ、甲武鉄道(のちの中央本線)の起点駅となった。そして、旧八ッ小路こそ、その駅前ターミナル広場として利用されることになる。 その広場のシンボルとして、日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹長の巨大な銅像があった。

(江戸名所図会より八ツ小路)
名所図会筋違

江戸名所図会では、ちょうど現在の肉の万世秋葉原ビル屋上から駿河台の明治大学方面を望んだような感じだ。八ッ小路を横切る武家の行列の位置は、広重の絵の手前に見える行列とほぼ同じ位置だろう。 ここからも広重がこの広場の一部しか描いていないことがわかる。

(万世橋駅舎と広瀬中佐像)
広瀬中佐

初代の万世橋駅は、東京駅舎と同じ辰野金吾の設計だ。図の駅舎は関東大震災で倒壊、のち簡素なものに立て替えられたが、駅そのものが1943年(昭和18年)に廃止。今では知る人も少ない幻のターミナルステーションとなった。

江戸図9【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
009筋違a

現代図9
009筋違b

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■第47景 昌平橋聖堂神田川

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