第30景 亀戸梅屋舗
第30景 亀戸梅屋舗 安政4年(1857)11月 改印
かめいど うめやしき

亀戸天神から北東300メートル足らずのところに、梅屋舗と呼ばれる梅の名園があった。中でも、そこにあった 「臥龍梅」(がりょうばい)と呼ばれる梅が有名で、シーズンともなると、大勢の人が訪れて大変賑わったようだ。その盛況ぶりは、この第30景よりも、同じ広重の描いた「東都名所亀戸梅屋舗全図」の方がわかりやすい。
この亀戸梅屋舗の起源はよくわからない。江東区の現地看板によると、呉服商人、伊勢屋彦右衛門の「清香庵」と呼ばれた別荘がここにあり、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋舗」と呼ばれるようになったという。名物の「臥龍梅」は、徳川光圀が命名したそうで、また、徳川吉宗もこの地を愛して、鷹狩の帰りに訪れたらしい。ということは、遅くとも徳川綱吉の治世の頃には、すでにこの梅屋舗が成立していたということになる。将軍筋が直接訪れるような場所なのだから、伊勢屋彦右衛門というのはよっぽど知られた商人であったのだろう、しかし、彼については詳しい記録がない。光圀は、旅の途中に「清香庵」を訪れたのか。 光圀の字(あざな)は「子竜」、号は「梅里」といい、その光圀が 「臥龍梅」の命名者であるというのは、水戸黄門のエピソードとしてなんともでき過ぎている。
( 東都名所亀戸梅屋舗全図 )

一方、江戸後期の農学者大蔵永常の『広益国産考』(1859)に、この梅屋舗について次のような記載がある。
「此所の梅は地を這いて龍の形あれば、臥龍梅とて一種の名木也。寛政文化の頃、東都に俳諧を楽む一老人あり。隅田川の辺りに地面を求め、草庵をむすび、其四方に梅の木の一、二尺廻りにもあまれるを三百六十本調へ植え置きけるに、新梅屋敷と称し、春は男女群集せり。」
なるほど、ここには、寛政から文化の頃に一老人が草庵を作って梅を植えたとある。これが正しいとすると、梅屋敷の始まりは、吉宗の孫の松平定信の時代以降ということになって、水戸黄門が 「臥龍梅」 の命名者であるというのに矛盾が生じる。そもそも、龍の様な根っこが、150年近くも同じ形態でメンテナンスされていたというのも怪しい気はしていたが。
実は、この梅屋敷、梅が美しく人が集まることをいいことに、土産用に梅干を売って利益をあげていた。当時、「梅干は吐逆をとめて痰を切る、のどの痛むに含みてぞよき」と言われ、薬としてもニーズがあったことがわかる。水戸黄門が名付け親だというのは、花の色、その香りは深く、至って尋常ではない、という魅惑的なキャッチフレーズとともに、宣伝用に創作された逸話ではないだろうか。ちょうど、講談の「水戸黄門漫遊記」が人気を集めたのもこの頃である。
この亀戸梅屋敷も、明治43年(1910)の水害で瀕死の被害を受けて廃園になり、ゴッホが模した広重の 「臥龍梅」とともに、今や伝説の名園となった。
江戸図30 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】

第30景の描写地点を特定するには情報が少なすぎる。従って、同じく広重画の「東都名所亀戸梅屋舗全図」の写生方向を地図上に推定した。
現代図30

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■歌川広重『亀戸梅屋敷』木版画
かめいど うめやしき

亀戸天神から北東300メートル足らずのところに、梅屋舗と呼ばれる梅の名園があった。中でも、そこにあった 「臥龍梅」(がりょうばい)と呼ばれる梅が有名で、シーズンともなると、大勢の人が訪れて大変賑わったようだ。その盛況ぶりは、この第30景よりも、同じ広重の描いた「東都名所亀戸梅屋舗全図」の方がわかりやすい。
この亀戸梅屋舗の起源はよくわからない。江東区の現地看板によると、呉服商人、伊勢屋彦右衛門の「清香庵」と呼ばれた別荘がここにあり、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋舗」と呼ばれるようになったという。名物の「臥龍梅」は、徳川光圀が命名したそうで、また、徳川吉宗もこの地を愛して、鷹狩の帰りに訪れたらしい。ということは、遅くとも徳川綱吉の治世の頃には、すでにこの梅屋舗が成立していたということになる。将軍筋が直接訪れるような場所なのだから、伊勢屋彦右衛門というのはよっぽど知られた商人であったのだろう、しかし、彼については詳しい記録がない。光圀は、旅の途中に「清香庵」を訪れたのか。 光圀の字(あざな)は「子竜」、号は「梅里」といい、その光圀が 「臥龍梅」の命名者であるというのは、水戸黄門のエピソードとしてなんともでき過ぎている。
( 東都名所亀戸梅屋舗全図 )

一方、江戸後期の農学者大蔵永常の『広益国産考』(1859)に、この梅屋舗について次のような記載がある。
「此所の梅は地を這いて龍の形あれば、臥龍梅とて一種の名木也。寛政文化の頃、東都に俳諧を楽む一老人あり。隅田川の辺りに地面を求め、草庵をむすび、其四方に梅の木の一、二尺廻りにもあまれるを三百六十本調へ植え置きけるに、新梅屋敷と称し、春は男女群集せり。」
なるほど、ここには、寛政から文化の頃に一老人が草庵を作って梅を植えたとある。これが正しいとすると、梅屋敷の始まりは、吉宗の孫の松平定信の時代以降ということになって、水戸黄門が 「臥龍梅」 の命名者であるというのに矛盾が生じる。そもそも、龍の様な根っこが、150年近くも同じ形態でメンテナンスされていたというのも怪しい気はしていたが。
実は、この梅屋敷、梅が美しく人が集まることをいいことに、土産用に梅干を売って利益をあげていた。当時、「梅干は吐逆をとめて痰を切る、のどの痛むに含みてぞよき」と言われ、薬としてもニーズがあったことがわかる。水戸黄門が名付け親だというのは、花の色、その香りは深く、至って尋常ではない、という魅惑的なキャッチフレーズとともに、宣伝用に創作された逸話ではないだろうか。ちょうど、講談の「水戸黄門漫遊記」が人気を集めたのもこの頃である。
この亀戸梅屋敷も、明治43年(1910)の水害で瀕死の被害を受けて廃園になり、ゴッホが模した広重の 「臥龍梅」とともに、今や伝説の名園となった。
江戸図30 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】

第30景の描写地点を特定するには情報が少なすぎる。従って、同じく広重画の「東都名所亀戸梅屋舗全図」の写生方向を地図上に推定した。
現代図30

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