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第47景 昌平橋聖堂神田川

第47景 昌平橋聖堂神田川 安政4年(1857)9月 改印
しょうへいばし せいどう かんだがわ

第47景昌平橋聖堂神田川

さて、今回話題にしたいのは、この絵に描かれている渓谷である。
このあたりの流れは、文字通り神田川として知られているが、これは自然の河川ではなく、人工的に掘られた土木建造物だ。
秀忠から家光の時代にかけ、城郭都市防備の目的で、江戸を「の」 字型に囲むように外濠、内濠が掘られた。濠を掘削すれば残土が出る。その土砂で入り江を埋め立て、大名屋敷や町屋用の敷地を造営したわけだ。事実、現在の皇居前広場や銀座中心地より東側あたりは、この時の埋め立てにより誕生した人工の新天地である。

外濠りを作る際に、平川のオリジナルの水流が活かされた。しかし、もともと平川の自然な流れは、飯田橋を過ぎて、九段下(俎板橋近辺)、平川門あたりを通り、大手町の手前で江戸湾に注ぐというものであった。この流れは、日本橋川という名の内濠として残すことになるのだが、新たに、飯田橋あたりから左右にこの水を流す外濠を掘削した。東側はこの昌平橋を越え、外神田、内神田を貫いて隅田川につないだ。 西南側は、市ヶ谷、赤坂、溜池を経て、汐留で江戸湾につないだ。現在の外掘り通りとほぼ一致するので、規模感は大体イメージできるだろう。(上記地名はいずれも後世の名称)

前置きが長くなったが、この東側の濠、すなわちこの絵に描かれた地点を含む数キロ間は、単に平地を掘ったというような場所ではない。 実は、ここは、本郷台地が舌状に伸びる丘であり、その南側先端はさらに神田山と呼ばれる小高い山になっていた。 すなわち、この台地を南北真っ二つに割かつよう切り通し、さらに掘り下げて水を通すという大工事を行ったわけである。この部分の掘削工事は、伊達家に割り当てられたことから、このあたりを仙台堀とも言う。 また、神田山と呼ばれた台地の先端も、このとき上部がならされ、徳川直参の駿府家臣団が住んだ。今も地名が残る駿河台である。

御茶ノ水駅付近に行くと、この高台と崖が神田山の名残であることがすぐに判る。ここからこの人工の渓谷を見下ろすと、今さらながら当時の権力者の凄さが伝わってくる。決して暗渠にしてはいけない江戸の遺産と言えるだろう。

なお、この絵の描写地点は、昌平橋の八ツ小路側である。 「第9景 筋違内八ッ小路」で、中央付近の家屋(番所)の裏に冠木門が見えるが、まさにそのあたりだ。 (神田川の上流へ↑ 下流へ↓ )


江戸図47 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】(画面クリックで拡大)
本郷掘削a

* 江戸時代、神田川と呼ばれていたのは、飯田橋から本郷台地(神田山)を貫き、隅田川へ注ぐまでの区間のみである。飯田橋より上流は、関口大洗堰までを江戸川、さらにそれより上流は、一般に上水と呼ばれていた。

現代図47(画面クリックで拡大) 
本郷掘削b

関連する風景
第9景 筋違内八ッ小路
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