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第42景 玉川堤の花

第42景 玉川堤の花 安政3年(1856)2月 改印
たまがわつつみのはな

第42景玉川堤の花

意外なことに、広重の江戸名所百景には実在しなかった名所も描かれている。 この「玉川堤の花」がまさにそれだ。 玉川堤の花、すなわち玉川上水沿いの桜の名所として知られていたのは、そもそも小金井であった。その小金井の桜並木の人気にあやかって、当時客引きに懸命であった内藤新宿が、新たに名所を作ろうと企てた。

実は、内藤新宿には、すでに享保時代に植えられた桜並木があった。 場所は、高遠藩内藤駿河守の下屋敷(現新宿御苑)北側の玉川上水沿いである。しかし、この上水は屋敷内を流れていたため、一般が花見を楽しめるような場所ではない。 そこで、もっとパブリックな場所を選んで、新たに桜を植えることにした。 所管役所(恐らく町奉行)の許可もとりつけ、安政3年(1856)2月、天竜寺裏の上水沿いに、大久保から移植した古木を中心に、大小の苗木と合わせ、約75本の桜を植えた。 その時、何らかの権威付けが欲しかったのだろう、この古木に許可なく  「御用木(幕府が植えた木)折取べからず」 という看板を掲げた。 しかしこの勝手な行為がまずかった。 このことが、官林の諸事一般を掌る御林奉行 (おんはやしぶぎょう)の耳に入り、結局、老中の指示でこの植えたばかりの桜が開花前に撤去されてしまうことになる。 つまり、この名所は誕生前に幻に終わってしまったのだ。 もうお分かりであろう、広重のこの絵は想像図、言い換えると、企画倒れの完成予想図なのである。

原信田 実氏のの著書、 謎解き広重「江戸百」 では、この絵を描くにあたって、恐らく内藤新宿筋から魚屋を含む版元に何らかの働きかけがあったと推理している。 というのも、同時期に広重は、これと同じ場所の完成予想図をあと2作品残している。 なかでも、団扇絵 「四ツ谷新宿堤の花」では、この絵の右手前のの向こうに見える妓楼が、大々的にフィーチャされている。 すなわちこの女郎宿が新名所の観光客を見込んで、広重に宣伝ポスターを依頼したというのだ。 この絵の改印は、安政3年(1856)2月であり、これはまさに桜の植えはじめられた時期と同じタイミングである。 なるほど、戦略的だ。


( 団扇絵「四ツ谷新宿堤の花」)
団扇絵


さて、この幻の新名所の場所はどこだろう。どこを探してもその場所を特定した記事は見当たらない。 しかし、斎藤 月岑(1804 ~ 1878年)の武江年表によると、桜が植えられたのは、「天竜寺後、上水脇へ... 」であるから、よく言われるように新宿御苑の正門付近ではない。 文面からそのまま解釈すると、ここは、追分(伊勢丹の交差点)を左折して、しばらくすると突き当たる天竜寺裏の上水沿いではないかと思う。 ここは、直線の広小路で、露店を出したり、客寄せするにもちょうどいい。 しかも、江戸図で考察するに、前述の女郎屋は、上水を渡った天竜寺側の門前町 (もんぜんちょう)内に位置している。 基本的に、門前町は寺社奉行の管轄で、町奉行の治外法権だから、賭場や岡場所を新設するにも都合がいい。 せっかく策を練った計画が頓挫した内藤新宿筋は、さぞガックリしたに違いない。 第86景 四ッ谷内藤新宿 でも述べたが、新宿の歴史は、まさに客引きと失敗の歴史である。

なお、広重の絵で上水は右に湾曲している。 しかし、実際には広小路沿いに直線である。これは遠近感を出すためのテクニックで、竪絵の江戸百景ではよく見られる。


江戸図 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
042玉川堤の花a

現代図
042玉川堤の花b

関連する風景
第86景 四ッ谷内藤新宿
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この記事へのコメント

Satoman : 2010/03/13 (土) 13:34:27

お元気様です!江戸が好きになりました!

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