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第28景 品川御殿やま

第28景 品川御殿やま 安政3年(1856)4月
しながわ ごてんやま

第28景御殿山

品川の御殿山は、古くは太田道灌、江戸初期には徳川家康が御殿を構えたくらいだから、それは美しい丘であったのだろう。8代将軍吉宗により一般に開放されて桜の名所となるが、ここは風流人の好む月見の名所でもあった。 広重は、ここで桜を何枚も描いたのはもちろん、観光ガイド 「絵本江戸土産」 などで、諸説ある 「月の岬」 は、この御殿山であると示唆している。それほどまでに、ここは彼にとって思い入れのある場所であり、遺作となるこの江戸百景でも、本当は、美しい御殿山を描きたかったはずだ。しかし彼は敢えて、地層が露出した無骨な崖を描いた。

(東都名所 御殿山花見品川全図)
東都名所品川全図 
当図は、御殿山が完全な姿であった頃の花見の様子を伝える代表的な絵といえるだろう。この他、広重がここ御殿山を題材にしたものは本当に多く、「絵本江戸土産」 には、第28景と同様掘削後の絵もあり、こちらは山側から海を臨む構図となっている。また、2代目広重も掘削後の御殿山を山側から描いた図を残している。

下  (絵本江戸土産・第七編 御殿山当時のさま) 月を忘れていない (風流)
右下 (江戸名所四十八景 御殿山満花 広重二代) 沖に台場が見える (複雑)
御殿山当時のさま  御殿山満開
 
御殿山が何でこんな姿になってしまったのか。 黒船を撃退するための大砲を設置する目的で建設された台場は、この御殿山などから切り崩した土を用い、江戸湾を埋め立てて作った。結局、日米修好通商条約締結 (1857年)により、台場に設置された大砲は、一度も実戦で使われぬまま、放置されることになる。しかし、仮に火を噴いていたとしても、当時の技術力では、黒船を撃沈できるだけの能力はなかったと言う。幕府は真剣だったのだろうが、この無用の長物のために、由緒ある山が無残にも破壊され、何百本もの桜も伐採され、そして、こだわりの月見スポットも消えてしまった。つまり、広重の癒しの空間がまんま犠牲になったのである。これには、広重もさぞ、悲観しただろう。時には、狐火のような空想画まで描く広重だが、時代の移り変わり、失われてゆくものを知らしめようという意識が働き、広重をして、めずらしく時事性のあるリアルな作品を描かせしめたのではないだろうか。

ちなみに、この崖の上には、このあと (1863年)英吉利(イギリス)公使館が建設されることになり、御殿山は再び庶民の立ち入り禁止区域となる。その公使館も、建設途中に高杉晋作ら長州の攘夷派によって焼き討ちにあう。そして、明治5年、東海道線がここを通ることになると、御殿山はさらにえぐりとられて、すっかりその姿を変えてしまう。広重がもう少し長生きしていたら、今度はどんな御殿山を描いていたのだろうか。 

江戸図28【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 
028御殿山a

* 品川歴史館の展示資料などから、筆者が御殿山の掘削部分を推定して図中に記した。

現代図28
028御殿山b

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第83景 品川すさき


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