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第25景 目黒元不二

第25景 目黒元不二 安政4年(1857)4月 改印
めぐろ もとふじ

第25景目黒元富士

江戸時代後期、全国各地で、富士講が盛んに行なわれるようになった。 特に江戸では、わざわざ遠方の富士山に行かなくても、気軽に富士登山を行えるように、いたるところに富士塚がつくられた。 もちろん、そのモドキに登ることでも十分にご利益があったわけだが、その頂上から本物の富士山を拝むというのは、富士講のメンバーでなくてもうれしいアトラクションであったろう。 

目黒川沿い東側の崖線は、爺々が茶屋に展望台があったくらい、そもそも富士山がよく見渡せる高台であった。 そこに作られた富士塚の頂上から見る本物の富士山は、さぞ格別であったに違いない。 この目黒の崖線には、並んで2つの富士塚があり、江戸百景にはそれぞれ独立した題材として描かれている。 この第25景に描かれた富士塚は、文化9年(1812年)に目黒村の富士講メンバーが築いたと言われており、この地域の富士講のマークが、丸に旦の字であったことから、丸旦富士と呼ばれた。 高さ12メートルほどある大きなもので、山頂には富士信仰お約束の浅間神社が祭られていた。

このあたりは現在の代官山付近の旧山手通り沿いにあたり、豪邸の並ぶ瀟洒な雰囲気の場所だ。 ここには、もともと大名の抱地なども存在はしていたが、高級邸宅街として整備されるのは、明治になってからである。 西郷隆盛の弟の従道の屋敷は、豊後岡藩中川修理の屋敷跡を摂取して建てられ、現在では西郷山公園として、当時を偲ぶことができる。 そして、この丸旦富士のあった場所は、公家の岩倉具視が別荘用地として購入したため、一般が参拝することができなくなってしまった。 そこで、丸旦富士講のメンバーは、近所にこの富士塚を新設することにする。 場所は、大山街道(現246号線)沿いで、目黒川に架かる大橋(池尻大橋)手前の右にある小高い丘を選び、これを富士山に見立てることにした。 ここには、古くから上目黒氷川神社があり、今も敷地内に新元富士の碑が残る。 江戸後期から明治にかけて、近所に富士山が3つも並んでいたというわけだが、なんとも興味深い風景と言えよう。 つづく  

江戸図25【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 
025目黒元富士a

現代図25
025目黒元富士b

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