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第24景 目黒新富士

第24景 目黒新富士 安政4年(1857)4月 改印
めぐろ しんふじ

第24景目黒新富士


目黒新富士は丸旦富士に遅れること7年、文政2年(1819)に、幕臣の近藤重蔵が、その晩年、目黒崖線の三田村鎗ヶ崎の邸内に築いたものだ。 庶民ではなく、武士が屋敷内に作った富士塚という点で、丸旦富士との違いがある。 目黒に新しい富士塚ができたことから、一般に丸旦富士は目黒元富士(西富士とも)、そしてこの富士塚は目黒新富士(東富士とも)と呼ばれるようになった。

近藤重蔵は、有事の際の尖兵隊である御先手組や、平時の際の特殊警察隊ともいえる火付盗賊改方の与力などを経験したのち、長崎奉行手付出役、関東郡代付出役など、今でいう中央官庁の課長級にあたる役職を歴任して、御家人( 将軍に謁見できない幕臣 )としては、異例のエリートコースを歩んだ。 そののち、松前蝦夷地御用取扱となると、幕府公式の蝦夷調査隊として、千島列島や択捉島を探検し、そこに「大日本恵土呂府」の木柱を立てた功績で、歴史の教科書に載る人物となった。

しかし、近藤は、そうした有能な人物であった半面、自信過剰で粗野な面があり、幕府での評価は必ずしも高くなかったようだ。 この目黒新富士(近藤富士とも)も、彼の自己顕示欲や、エキセントリック面が作らしめたとも考えられ、それが理由ではないだろうが、この築山の同年に、大坂勤番弓矢奉行に左遷、その2年後には、実質上の自宅待機組である小普請入差控を命じられて、滝ノ川村に閉居という晩年を送っている。 つまり、この富士塚で悦に入る期間は、ほとんどなかったということだ。

近藤重蔵の屋敷跡は、恵比寿駅西側のロータリーから続く一本道を、7~8分歩いた目黒崖線の高台に位置する。 この一本道は、江戸時代の祐天寺道であり、今も当時の道筋をたどれる貴重な細道だ。 特に近藤の屋敷の横から、目黒川へと降りる別所坂は、坂の途中に庚申塔も残り、当時のうっそうとした雰囲気を今に伝えている。 この絵の中央付近に見える三角屋根は、長泉院か。 なお、件の富士塚は、昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。

江戸図24 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
024目黒新富士a

現代図24
024目黒新富士b

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