第23景 目黒千代か池
第23景 目黒千代か池 安政3年(1856)7月 改印
めぐろ ちよがいけ
千代が崎は、目黒崖線の他の名所と同様、高台であるが故に景勝の地であり、ここからの眺めは 「絶景観」 と称された。 広重は、元不二、新富士、そして爺が茶屋と、目黒の丘からの絶景は3枚も用意したので、 ここからの絶景は雪旦の江戸名所図会に譲り、自らは崖下の 「千代が池」 と、そこに注ぐ滝を描いた。 斜面の桜の影が水面に映り込む様は、秋葉の境内同様、風流画の領域であり、なんとも美しい。 なお、千代が崎の名は、南北朝時代、新田義興の侍女の 「千代」 がこの池に身を投げた伝説に因むという。 太平記の多摩川 「矢口の渡し」 に登場する義興謀殺事件の外伝だ。
目黒区のホームページなどによると、江戸時代後期、ここには、肥前島原藩松平主殿頭の屋敷があり、「千代が池」はその敷地の庭にあったという。 ここでひとつ疑問が生じる。 大名屋敷は、普通に考えると一般庶民が自由に出入りできるような場所ではない。 大名屋敷といえば、白壁か長屋塀が回りを囲む堅牢なイメージがあり、観光客がふらっと立ち入れるはずもない。 では、この「千代が池」 は、大名屋敷内の閉ざされた場所に位置し、一般が簡単に見ることのできない伝説の名所であったというのだろうか?
左は典型的な大名屋敷の長屋塀のイメージといえよう。これは、肥前島原藩松平主殿頭の下屋敷、つまり持ち主は、本件で取り上げている目黒の屋敷と同じ人物だ。場所は、現在の三田の慶応義塾大学の敷地にあたり、この坂は綱坂で、今もここはこの雰囲気をよく残す。
大名屋敷は、参勤中の大名や、常府の家族の住居、そして江戸詰め並びに参勤に同伴した家中(かちゅう)の寮である。大名が寺社奉行など役についている場合には、役所を兼ねることもある。 基本的には、江戸城に近い上屋敷をプライマリーとして、バックアップ用に中屋敷、下屋敷が用意される。 これらは、拝領屋敷といって、幕府から割り当てられる。 しかし大藩となると、幕府から借りた屋敷だけではどうしても手狭だ。 そこで、大名の中には、自分達で直接地権者と交渉し、敷地を借用或いは購入する者があった。 こうした土地を抱地(かかえち)、そこに建てる家屋を抱屋敷という。 この抱え地であるが、大名が土地を取得すると、元々の村民はそこから立ち退きを余儀なくされたと考えがちだが、実際には、大名が元々の地権者を丸抱えして、年貢も負担した。 つまり、村民はそこにそのまま住み続けることができたのである。 そして、この島原藩の千代が崎の敷地こそ、まさにそうした抱え地であったわけだ。
安政江戸図を見ると、松平主殿頭の敷地を示す白い領域内に、三田村入会、上大崎村入会、上下目黒村入会、との記載がある。 これすなわち、ここには、大名の支配地内に村との共有地が存在していることを示している。 もう疑問は解決したといえよう、 「千代が池」は、松平氏の敷地内とはいえ、自由に出入りできる場所にあったのだ。 つまり、ここは、壁や柵が存在しないオープンスペースで、誰もが楽しめる名所だったのである。 広重が大名屋敷を覗いて描いたというわけではなさそうだ。
江戸図23【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成
現代図23
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