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第41景 市ヶ谷八幡

第41景 市ヶ谷八幡 安政5年(1858)10月 改印
いちがや はちまん

第41景市ヶ谷八幡

鎌倉の八幡宮が「鶴ヶ岡(つるがおか)」を冠するのに対して、市ヶ谷の八幡宮は、「亀ヶ岡(かめがおか)」を冠して亀ヶ岡八幡宮という。前者は、地名からついた名称だが、後者は、ただの洒落だろう。この亀ヶ岡八幡は、太田道灌が文明11年(1479)に、江戸城の西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりと伝えられる。もともとは、もう少し東よりの麹町の方向にあったが、江戸城の外堀が掘られた時(1636頃)、現在地の市ヶ谷門外に移転したという。

明暦の大火後、尾張徳川家の広大な上屋敷が現在の防衛省などの場所にやってきた。すると、寂しかったこのあたりは、茶屋や芝居小屋なども立ち並び、賑わいの一角となった。尾張藩といえば、幕府の経費削減策を無視して、飲めや歌えで、経済振興を図った無頼の藩である。従って、この門前町が、尾張家中(かちゅう)の為の不法地帯であったのではないか、と想像すると面白い。さらに、楽園である内藤新宿が目と鼻の先であることもうらやましい。この絵は、市ヶ谷見附の土の一部を右下に置き、八幡宮と、現靖国通りと外堀通りが交わる場所に位置する門前町を緻密に描いている。中央左端に尾張家上屋敷の白壁と火の見櫓がちらっと見える。 

さて、江戸図を見ると、尾張家をはじめ、御三家の屋敷はどれも別格の広さであったことがわかる。これら御三家の屋敷は、当初は江戸城内、のちの「吹上げの庭」に、3軒が仲良く並んでいた しかし、明暦の大火(1657)後の区画整理で、御三家の屋敷は江戸城外へと移され、外堀の西北の外周に一定区間をあけて配置された。大名屋敷の跡地は、明治になると新政府に摂取され、政府の施設や練兵場、諸外国の大使館用地などに転用されたが、中でも、御三家の敷地はその後も特別扱いを受けてきたのだろう、今もなお、その敷地跡が当時とほぼ同じ面積で活用されている。惜しむらくは、小石川後楽園や赤坂御所の一部を除き、白壁や石垣など、江戸時代の遺構が殆ど残っていないことだ。

水戸徳川家 (小石川)  画像マウスオンで現代 
水戸葵100
水戸徳川家は、基本的に常府であるため、一般に将軍補佐役と勝手に思われてきた。副将軍などと呼ばれるのはこのためである。この敷地は、明治以降、砲兵関連の施設に転用され、現在は東京ドーム、小石川後楽園を含む一帯となっている。右は水戸葵紋。

尾張徳川家 (市ヶ谷)  画像マウスオンで現代 
尾張葵100
尾張の市ヶ谷の屋敷は、明治以降軍用地として摂取され、歩兵連隊や陸軍士官学校、そして大本営なども置かれた。戦後も自衛隊の駐屯地となり、三島由紀夫が割腹したのもここである。現在も、防衛省関連の施設が並ぶ。右は尾張葵紋。

紀州徳川家 (赤坂)   画像マウスオンで現代 
紀州葵100
御三家随一の広さを誇る紀州家の赤坂の屋敷は、明治以降赤坂離宮となり、仮皇居としても使われた時期もある。現在は、皇太子の住む赤坂御所並びに迎賓館の敷地として利用されている。右は紀州葵紋。

(江戸図41)【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】
041市ヶ谷a

(現代図41)
041市ヶ谷b



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この記事へのコメント

Duffy : 2010/04/15 (木) 18:50:46

今回の重ね地図とても見やすく、改めて徳川御三家のお屋敷の広さが
実感できました。ゆっくりお散歩したいです。

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