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第40景 せき口上水端はせを庵椿やま

第40景 せき口上水端はせを庵椿やま 安政4年(1857)4月 改印
せきぐち じょうすいばた ばしょうあん つばきやま

第40景はせを庵

この長いタイトルには、次の4つの要素が含まれている。分解してそれぞれを見て行こう。

1.せき口
関口と書き、この流れのすぐ下流に堰(せき)すなわちダムがあることから生じた地名である。(他説あり)
2.上水端
神田上水沿いということ。
3.はせを庵 (ばしょうあん = 芭蕉庵)
松尾芭蕉ゆかりの庵を指す。
4.椿やま
この絵の右に見える丘(崖)のことであり、椿山荘と言えばピンとくるだろう。

さて、ここは、神田上水を語るうえで、外せないスポットである。この絵のほんの数百メートル下流(手前側)に、関口大洗堰とよばれるダムがあり、重要な役割を担う施設であると同時に、清涼感あふれる江戸名所でもあった。このダムで、水をせき止め、流れを二分させ、一方は、飲料用水として江戸市中に供給し、もう一方は、江戸川という名称に変わって江戸城の外濠用の水として用いられた。この堰は、天下普請(1606~)の時に本格的に整備されたと考えられるが、堰の素材となる石垣用の岩を舟でここまで運んできたことを考えると、順序としては、外濠(仙台濠)の完成後の着手と見るのが妥当であろう。 因みに、江戸川橋駅至近に石切橋というバス停があるが、このあたりが、石を荷上げし、加工した場所だと想像できる。

(江戸名所図会より、目白下大洗堰)
堰図会450

ところで、この神田上水と松尾芭蕉とは少しばかり関係がある。江戸に出てきた松尾芭蕉は、日本橋の魚問屋に居候して、時折句会に参加するという、気ままな生活を送っていた。しかし、俳諧宗匠として立机する前は、物価の高い江戸での生活に相当苦労していたとみえ、完成後50年以上経ち、老朽化してきた神田上水の改修工事 (1673~)で2~3年間バイトをすることになる。芭蕉37歳の頃である。芭蕉の母方は、百地三太夫ゆかりの家柄で、芭蕉も桃青という、自らが忍者の子孫であることを暗示するかのような俳号を用いている。 つまり、忍者の血が流れる芭蕉にとって、鳶仕事は何でもなさそうだが、実際には、用度や進捗管理などの事務方をやったと考えるのが自然であろう。この工事の監督事務所があったのが、水神社脇の安楽寺であり、その寺跡地に、後に門人達が芭蕉ゆかりの地として、芭蕉堂を建てた。 そこがいつしか「せき口ばせを庵」と呼ばれるようになったという。

「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」
 (さみだれに かくれぬものや せたのはし)

芭蕉がこのあたりで、早稲田のたんぼを琵琶湖に見立てて詠んだ句だそうだ。なぜここで、琵琶湖の句を読んだのかは不明だが、瀬田の大橋の俤(おもかげ)を見たのは、姿見の橋だったのか。 (神田上水の上流へ↑ 下流へ↓ 江戸川の下流へ↓

ばせを新旧
ばせを写真 
上左 江戸川公園内 大洗堰の復元遺構(取水口の石柱)
上右 遺構の説明版
下左 関口芭蕉庵正門
下右 水神社(神田上水の鎮守)
* 写真はいずれも筆者撮影

江戸図40【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】(画面マウスオンで現代)


関口大洗堰江戸図 【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】(画面マウスオンで現代)
 

関連する風景
■第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場



Entry ⇒ 2010.04.23

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