第48景 水道橋駿河台
第48景 水道橋駿河台 安政4年(1857)5月 改印
すいどうばし するがだい
5月は古来より不吉な月とされてきたことから、無病息災を願って、皐月(さつき)の端午(たんご)、すなわち、5月の最初の午(うま)の日には、解毒効果のある菖蒲を用いて邪気を払う 「端午の節句」 という習慣が生まれた。 菖蒲は尚武にも通じるということから武家の間で重んじられ、大名、旗本総登城での式典も行われた。 江戸時代中期以降、この習慣は一般にも浸透し、武家が戦の陣地に立てる旗状の幟(のぼり)や吹流しを掲げたのに対して、町人は、独自文化として鯉のぼりを生み出した。 この絵は、本郷台地の南西の高台から、旗本、御家人の屋敷がビッシリと並ぶ飯田町から番町一帯を俯瞰したものである。 絵をよく見て頂こう。正面の鯉のぼりは、主題を強調するための合成であるとも考えられるが、背景、すなわち遠方の武家屋敷一帯に、鯉のぼりは泳いでいない。 鯉のぼりが泳ぐのは、中央右の三崎稲荷と思われる場所のみである。このことからも、武家に鯉のぼりの習慣が無かったことが窺える。
さて、話は変わるが、この絵を描いた場所には、現在の水道橋の名称の由来となったオリジナルの水道橋が架かっていた。 こちらは、固有名詞の 「すいどうばし」 ではなく、普通名詞の 「すいどうきょう」 である。 つまり、木製の水道管を渡す橋(懸樋)がこの場所に架かっていた。 井の頭池などを源流とする 「上水」 は、関口大洗堰で二分され、一方は、神田川(外濠)となり、もう一方は、本来の神田上水となる。 その流れは、水戸藩上屋敷を通過後、サイフォンの原理に似た方法で、この絵を描いた場所まで一旦吸い上げられ、それから、この水道橋(懸樋)を伝わって、駿河台へ渡される。 駿河台も高台だから、そこから網の目のように張り巡らされた水道管(木樋や石樋)で、一気に神田、日本橋方面に上水を供給したというわけだ。 そもそも、江戸の町は埋立地だから、井戸を掘っても真水は出ない。 そこで、幕府は、江戸に上水網を整備し、井戸水を真水化させた。 「江戸っ子は、水道水で産湯につかり... 」 というのは、この日本初の地下水道を自慢した言い廻しである。
江戸図屏風・右隻第6扇中上(1633年頃)
この上水と水道橋、そして地下水道網は歴史が古い。 神田上水の着手が、関が原以前(1590年)であることは、別項で述べたが、この水道橋(懸樋)も、天下普請の完成前後の「江戸図屏風」(1642年頃)にしっかり登場する。 すなわち、本郷台地の掘削による神田川(外濠)の普請と、この橋架は、同時に計画され、建造されたと見ることができる。 同じ水源の水を空中で交差させるという方法を思いつき、想像を絶する大工事を完成させた当時の熱意と技術力に改めて驚愕せざるを得ない。(神田上水の上流へ↑)
(写真48)
(写真上左) 三崎稲荷の鳥居と鯉のぼり
(写真上右/下/下中) 東京都水道歴史館展示の懸樋の模型。水番が水質検査をする様も再現されるなど、なかなか良くできたジオラマだ。 *写真は、いずれも筆者撮影
安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 マウスオンで現在
すいどうばし するがだい

5月は古来より不吉な月とされてきたことから、無病息災を願って、皐月(さつき)の端午(たんご)、すなわち、5月の最初の午(うま)の日には、解毒効果のある菖蒲を用いて邪気を払う 「端午の節句」 という習慣が生まれた。 菖蒲は尚武にも通じるということから武家の間で重んじられ、大名、旗本総登城での式典も行われた。 江戸時代中期以降、この習慣は一般にも浸透し、武家が戦の陣地に立てる旗状の幟(のぼり)や吹流しを掲げたのに対して、町人は、独自文化として鯉のぼりを生み出した。 この絵は、本郷台地の南西の高台から、旗本、御家人の屋敷がビッシリと並ぶ飯田町から番町一帯を俯瞰したものである。 絵をよく見て頂こう。正面の鯉のぼりは、主題を強調するための合成であるとも考えられるが、背景、すなわち遠方の武家屋敷一帯に、鯉のぼりは泳いでいない。 鯉のぼりが泳ぐのは、中央右の三崎稲荷と思われる場所のみである。このことからも、武家に鯉のぼりの習慣が無かったことが窺える。
さて、話は変わるが、この絵を描いた場所には、現在の水道橋の名称の由来となったオリジナルの水道橋が架かっていた。 こちらは、固有名詞の 「すいどうばし」 ではなく、普通名詞の 「すいどうきょう」 である。 つまり、木製の水道管を渡す橋(懸樋)がこの場所に架かっていた。 井の頭池などを源流とする 「上水」 は、関口大洗堰で二分され、一方は、神田川(外濠)となり、もう一方は、本来の神田上水となる。 その流れは、水戸藩上屋敷を通過後、サイフォンの原理に似た方法で、この絵を描いた場所まで一旦吸い上げられ、それから、この水道橋(懸樋)を伝わって、駿河台へ渡される。 駿河台も高台だから、そこから網の目のように張り巡らされた水道管(木樋や石樋)で、一気に神田、日本橋方面に上水を供給したというわけだ。 そもそも、江戸の町は埋立地だから、井戸を掘っても真水は出ない。 そこで、幕府は、江戸に上水網を整備し、井戸水を真水化させた。 「江戸っ子は、水道水で産湯につかり... 」 というのは、この日本初の地下水道を自慢した言い廻しである。
江戸図屏風・右隻第6扇中上(1633年頃)

この上水と水道橋、そして地下水道網は歴史が古い。 神田上水の着手が、関が原以前(1590年)であることは、別項で述べたが、この水道橋(懸樋)も、天下普請の完成前後の「江戸図屏風」(1642年頃)にしっかり登場する。 すなわち、本郷台地の掘削による神田川(外濠)の普請と、この橋架は、同時に計画され、建造されたと見ることができる。 同じ水源の水を空中で交差させるという方法を思いつき、想像を絶する大工事を完成させた当時の熱意と技術力に改めて驚愕せざるを得ない。(神田上水の上流へ↑)
(写真48)

(写真上左) 三崎稲荷の鳥居と鯉のぼり
(写真上右/下/下中) 東京都水道歴史館展示の懸樋の模型。水番が水質検査をする様も再現されるなど、なかなか良くできたジオラマだ。 *写真は、いずれも筆者撮影
安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 マウスオンで現在


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この記事へのコメント
ツツミ : 2013/05/06 (月) 15:39:29
丸々三年前の記事に関する事で恐縮ですが、質問をさせていただきます。
質問というよりは、確認なのですが、「現在の水道橋の名称の由来となったオリジナルの水道橋が架かっていた。」という表現から、上水懸樋が、「水道橋(すいどうきょう)」と呼ばれていたような印象を受けます。実際、こちらの記事を参考にしたと思われる他のブログ等のネット情報では、そういう解釈がされているようです。
しかし、記事全体を拝読したところ、「固有名詞の水道橋(すいどうきょう)の意味合いを持つ懸樋が近くに在った事から、水道橋(すいどうばし)の橋名がついた」という文意であるように思われますが、こちらの解釈で間違いないでしょうか?
それから、江戸図屏風についてですが、この画では、橋のすぐ傍に懸樋が在りますが、これは、デフォルメに依るものとお考えでしょうか。この図を参考にしてか、水道橋(すいどうばし)の下に懸樋を通していたという言説も時々見かけます。だから水道橋の橋名なのだと。しかしここに描かれているのは、明暦の大火以前の江戸ですから、橋名は、まだ「水道橋」では無く、本郷台側に在った吉祥寺(大火後駒込に移転)とその門前町(大火後現・武蔵野市吉祥寺に移転)に因んだ「吉祥寺橋」だったはずです。
- : 2013/05/06 (月) 15:52:14
kutaron : 2014/01/01 (水) 20:15:15