第117景 湯しま天神坂上眺望
第117景 湯しま天神坂上眺望 改印 安政3年(1856)4月
ゆしまてんじん さかうえちょうぼう

湯島天神は、本郷台地の東側の高台に位置し、この絵の主題にもなっているように、不忍池の弁天様を見下ろすことのできる景勝の地であった。しかし、湯島天神には、景色や天神お約束の梅以外に、もうひとつ人を引き付けてやまないアトラクションがあった。それは、「宝くじ」である。
江戸時代、「宝くじ」は「富籤(とみくじ)」と呼ばれ、その興行主として、谷中感応寺、目黒不動尊、そしてこの湯島天神が 「江戸の三富」として良く知られていた。 当時、賭博は厳しく規制されていたにもかかわらず、寺社仏閣のみ、この怪しい催し物の興行が許されていた。 これはすなわち、バックに寺社奉行という大物がついていたからに他ならず、当初は、犯罪とトレードオフで、幕府がその利益を享受するしくみがあったとも考えられる。
富くじ開催にあたっての基本的な流れはこうだ。まず、興行主(ここでは、湯島天神)が、富くじ用の木札を発行する。 この木札(富札)は、境内や日本橋などにあるチケットショップ(札屋)などで販売される。その富札を買った者は、そこに、住処の町名と名前を書いて湯島天神に納める。 富くじの当日(富突の日)、神主が1000両、500両、300両、100両などと賞金を読み上げ、富札が納められた箱を錐(キリ)で突っつき、当たり札を掲げる。 そこで、自分の名前が読み上げられたら、見事当選というわけだ。 プライバシーは無い。
『摂津名所図絵』より箕面富突の図 箕面山 瀧安寺は、富籤発祥の地とされる

さて、この木札(富札)は幾らで売られていたのだろうか。 千両富、すなわち千両が当たる富札は、1枚1分で売られていた、と言ってもピンとこない。 当時の庶民相場で貨幣価値を試算してみよう。 一番イメージし易い例で行くと、当時の屋台蕎麦(二八そば)の値段は、文字通り 2×8の16文である。 現在の立ち食い蕎麦の値段を480円であると仮定すると、480円÷16文 で、1文=30円 となる。 1分は、1000文であるから、1000文×30円=3万円、1両は4分であるから、3万円×4分=12万円 となる。 すなわち、千両(12万円×1000両=1億2000万円!)の当たる宝くじ1枚は、3万円もしたということがわかる。 当選率がどのくらいであったのかにもよるが、何札も買うとすると、随分高い博打である。そこで、1札の権利を何口かに分けて取引させる闇マーケットもあったらしい。 また、仮に当たったとしても全部もらえるわけではなかった。 寺社修繕費として興行主へ10%、インセンティブとして札屋へ10%、そして誰に渡るのか手数料として、5%徴収されたという。
この富くじも、1842年(天保13年)3月8日、天保の改革の遊興弾圧により一切差止となる。 広重が45歳の時、つまりこの絵を描くおよそ14年前のことである。
(写真117)

不忍池こそ望めないが、石段の風情は今も当時の面影を残す。
写真は、2010年5月3日筆者撮影
【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 マウスオンで現在

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■第10景 神田明神曙之景
■第89景 上野山内月のまつ
ゆしまてんじん さかうえちょうぼう

湯島天神は、本郷台地の東側の高台に位置し、この絵の主題にもなっているように、不忍池の弁天様を見下ろすことのできる景勝の地であった。しかし、湯島天神には、景色や天神お約束の梅以外に、もうひとつ人を引き付けてやまないアトラクションがあった。それは、「宝くじ」である。
江戸時代、「宝くじ」は「富籤(とみくじ)」と呼ばれ、その興行主として、谷中感応寺、目黒不動尊、そしてこの湯島天神が 「江戸の三富」として良く知られていた。 当時、賭博は厳しく規制されていたにもかかわらず、寺社仏閣のみ、この怪しい催し物の興行が許されていた。 これはすなわち、バックに寺社奉行という大物がついていたからに他ならず、当初は、犯罪とトレードオフで、幕府がその利益を享受するしくみがあったとも考えられる。
富くじ開催にあたっての基本的な流れはこうだ。まず、興行主(ここでは、湯島天神)が、富くじ用の木札を発行する。 この木札(富札)は、境内や日本橋などにあるチケットショップ(札屋)などで販売される。その富札を買った者は、そこに、住処の町名と名前を書いて湯島天神に納める。 富くじの当日(富突の日)、神主が1000両、500両、300両、100両などと賞金を読み上げ、富札が納められた箱を錐(キリ)で突っつき、当たり札を掲げる。 そこで、自分の名前が読み上げられたら、見事当選というわけだ。 プライバシーは無い。
『摂津名所図絵』より箕面富突の図 箕面山 瀧安寺は、富籤発祥の地とされる

さて、この木札(富札)は幾らで売られていたのだろうか。 千両富、すなわち千両が当たる富札は、1枚1分で売られていた、と言ってもピンとこない。 当時の庶民相場で貨幣価値を試算してみよう。 一番イメージし易い例で行くと、当時の屋台蕎麦(二八そば)の値段は、文字通り 2×8の16文である。 現在の立ち食い蕎麦の値段を480円であると仮定すると、480円÷16文 で、1文=30円 となる。 1分は、1000文であるから、1000文×30円=3万円、1両は4分であるから、3万円×4分=12万円 となる。 すなわち、千両(12万円×1000両=1億2000万円!)の当たる宝くじ1枚は、3万円もしたということがわかる。 当選率がどのくらいであったのかにもよるが、何札も買うとすると、随分高い博打である。そこで、1札の権利を何口かに分けて取引させる闇マーケットもあったらしい。 また、仮に当たったとしても全部もらえるわけではなかった。 寺社修繕費として興行主へ10%、インセンティブとして札屋へ10%、そして誰に渡るのか手数料として、5%徴収されたという。
この富くじも、1842年(天保13年)3月8日、天保の改革の遊興弾圧により一切差止となる。 広重が45歳の時、つまりこの絵を描くおよそ14年前のことである。
(写真117)

不忍池こそ望めないが、石段の風情は今も当時の面影を残す。
写真は、2010年5月3日筆者撮影
【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 マウスオンで現在

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