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第113景 虎の門外あふひ坂

第113景 虎の門外あふひ坂 改印 【巳十一】 安政4年(1857)11月
とらのもんがい あおいざか

第113景虎ノ門外葵坂 

虎ノ門は、江戸城の見附の中でも、特に重要な位置づけにあった。徳川家康は八朔日(1590/8/1) に、府中経由で甲州道を使って江戸入りしたが、その時、後に外桜田門となる江戸城小田原口の背後西側の守りとして柵を築いた一帯があり、その場所がのちの天下普請を経て江戸城外濠の要塞となった。それが、虎ノ門である。

虎ノ門は、見附のセオリーにしたがって、二重扉の枡形造りで、そもそも堅牢ではあるのだが、一の扉(高麗門)へと続く直線道に平行して、左側に約300メートルにわたる濠割が走っていた。濠を隔てた向こう側の石垣の上には、中から鉄砲や矢を射るための小窓がついた塀が築かれ、石垣先端の角には、平時には監視塔、戦時には司令塔となる角櫓(角矢倉)があった。すなわち、敵は一の扉に突進する過程で、左から脇を突かれて前進できなくなる。 さらに、一の扉の前には、当初は木造の橋が懸かり、仮にここまで来れても、今度は、橋が切り落とされて進入路が塞がれる。つまりここは、出城とも言えるまさに要塞であったわけだ。

(江戸写真113 江戸末期の「虎之御門」の景)
虎ノ門古写真 
写真では見えないが、この一の扉(高麗門)をくぐった左側(奥方)にさらに二の扉(櫓門)がある。しかし、写真を見る限り、渡櫓そのものは消失してしまっているようだ。また、写真中央左上の石垣の一部が当時と同じ場所に展示保存されている。  

さて、筆者の興味を引くのは、そのネーミングだ。虎ノ門といういかにも強そうな名称は、四神相応でいうところの「白虎」から来ているという。 昔から繁栄する土地には、東西南北の天然の要害それぞれに神が宿り、それらの四つの神が相応であることが、理想郷の要件であるとされてきた。江戸が四神相応に沿って作られたことや、その相応ぶりをここで議論すると長くなるのでやめるが、そもそも、「白虎」とは、西側の街道に宿る物資到来の神である。本当を言うと虎ノ門は、江戸城の南側に位置するため、「白虎」とするのは、無理があるとの指摘もあるが、西国大名からの守りの鎮台、そして上方との相互物流の玄関口と考えれば、真に的を獲たネーミングといえよう。

最後に、虎ノ門外が名所であった理由について触れておこう。ここは、「赤坂のどんどん」と呼ばれる溜池の堰から流れ落ちる滝を中心に、葵坂頂上の「印の榎」という歴史ある榎の古木、そして、右の丘の上には、山王祭で有名な、「山王権現」を見上げることのできる、なかなかのシーナリーが広がっていた。さらに、意外にもここに、香川の「こんぴらさん」が鎮座していたことが、ここを名所たらんとしていた。この絵は冬の情景であるにもかかわらず、一番手前の2人の男はふんどし一丁である。わかりにくいが、手にした小田原提灯には、「金毘羅大権現」と書かれている。この社は、虎ノ門外の讃岐丸亀藩京極家の敷地内にあり、毎月十日に藩邸を開放して、参拝を許可していたという。裸の男達は「寒詣」と呼ばれる冬の行事に参加したわけであるが、何とも寒そうな表情をしている。 今は、修行中である。やはり、二八そばは我慢である。

(写真113)
トラ写真 
上左 本文に記載した角櫓の櫓台が当時と同じ場所に 「国史跡江戸城外堀跡溜池櫓台」として保存されている。 
上右 角櫓のイメージ(写真は、江戸城巽櫓) こんなものが、虎ノ門にあったのだ。
下左 文部科学省前に展示保存展示されている石垣 地下鉄虎ノ門の駅の出入り口から、この石垣を見上げられるように展示されている。 外堀に関するミニ博物館もあり、マニアにはうれしい。 
下右 金毘羅神社の裏参道。なかなかいい風情を今に残す。
*写真はいずれも筆者撮影 (2010年6月)


安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像マウスオンで現在


▲ピンクの太い矢印は、敵の侵入予想経路
▲赤の細い矢印は、鉄砲や矢の射程イメージ。 角櫓の位置は確かに戦略的だ。
▲広重のこの第113景は、神社マークの左、辻番所(■印)の左側から溜池方面を見上げたものだ。 地図を見ると、「印の榎」の場所にも■印があり、絵には辻番所らしき建物が描かれているのがわかる。

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