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第58景 大はしあたけの夕立

第58景 大はしあたけの夕立  改印 巳九 安政4年(1857)9月
おおはし あたけのゆうだち 

大はしあたけ

江戸時代、隅田川に架けられていた橋は、上流から千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋である。架けられた年代順に並べると、千住大橋(1594年)、両国橋(1658年)、新大橋(1693年)、永代橋(1698年)、吾妻橋(1774年)であるのだが、これらの橋は、地元の人からは、どれもシンプルに「大橋」と呼ばれており、単に「大橋」と言ってもどれを指すのかわかりにくい。この絵の橋も、両国橋であると断言する解説書を見たことがあるのだが、「あたけ」という名称が明記されていることから、これは「新大橋」のことだとわかる。

さて、ここではその「あたけ」に注目して見たい。あたけとは、「安宅」と書き、幕府船蔵のあった御船蔵前町近辺の俗称である。(正式に深川安宅町という地名が誕生したのは明治以降)。 そもそも安宅とは、室町末期~戦国時代に用いられた大型の軍艦のことで、織田信長の伝説の「鉄甲船」などが有名である。 天下普請の際、徳川秀忠は、江戸城の整備とあわせて海上の要塞を作ることを画策した。そこで、家康の元で徳川水軍の長として活躍した向井正綱の子の忠勝(将監)に、幕府の威信をかけた戦艦の建造を命じた。 それが天下丸(別名安宅丸)(1634年)であり、この軍艦(あたけ)が、本所隅田川沿いの幕府船蔵に係留されていた。

(江戸図屏風より -江戸湊、向井將監武者船懸御目候所)
向井安宅 
有名な家光の時代の寛永年間の江戸図屏風に、向井將監率いる幕府船団が描かれている。中央の大龍丸、左の小龍丸には櫓が確認できるので、安宅だろう。その右に結局幕末まで用いられた関船(中型艦船)の「天地丸」(1630年)は確認できるのに、肝心な「安宅丸」(1634年)が発見できない。このことから、筆者は諸説ある江戸図屏風の成立年を1633年頃とフンでいる。

この天下丸(別名安宅丸)は、船首に長さ3間の巨大竜頭の彫刻を施し、全長125尺(38メートル弱)、幅53.6尺(約20メートル)で、船首には、天守閣を思わせる2層の櫓(矢倉)がでんと乗る豪華船舶であった。 黒船がやってくる約220年も前の話であるから、当然動力は帆と人力である。 さらに、信長の「鉄甲船」よろしく船体・上構、総てが銅板張であるため相当に重く、漕ぎ手100人でも、なかなか進まなかったという。 権威を示すためのものであるから実用的ではなく、維持費もかかる。 ほとんど使われぬまま緑色に朽ち果て、天和2年(1682年)に幕府によって解体された。 以後、幕府の御座船(旗艦)の座は、もともとあった天地丸などの実用的な中型船(関船)にとって代わられるも、かつて「安宅」が停泊していたこの一帯に、あたけという地名が残ったものと考えられる。
 
しかしながら広重の時代も、ここが軍港であったことには変わりない。 同時代的に考えると、勝海舟の咸臨丸もここに係留されていたはずだ。 そんな幕府施設を直接的には描かず、それをぼやかすための突然の夕立が、名所江戸百景屈指の名画を生み出した。 ちなみに、「安宅」(あたけ)の語源は、ポルトガル語の "ataque"(アターキ)であり、英語で言う "attack" であるという説がある。 そこから来たのか、日本語で「あたける」とは、暴れまわる。当たり散らすという意味だそうだ。 ゴッホは、オランダ人ではあるが、この地名の語源や、攻撃的な(あたける)夕立で軍事施設を覆い隠した広重の演出まで理解して模写していたなら、相当深い。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像マウスオンで現在


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