第111景 目黒太鼓橋夕日の岡
第111景 目黒太鼓橋夕日の岡 巳四 安政4年(1857)4月 改印
めぐろ たいこばし ゆうひのおか
目黒の崖沿いは、なかなかの景勝地であったと見えて、名所江戸百景だけでも狭い範囲で5枚の作品がある。但し、崖の上から見る風景はどれも似てしまいがちと考えたのか、そのうち2枚は崖を見上げる構図にして変化を出し、さらに、夕日に映える木々が美しいというこの夕日の岡には雪を降らせて、目黒を納涼図の舞台とした。
当時、江戸方面から目黒不動に向かう参拝客は、崖を切り開いて作った急な行人坂を下ることになる。 この行人坂の途中に、遠く江戸城まで延焼したという行人坂火事(明和9年)の火元となった大円寺があり、この寺の裏手の土手が、件の夕日の岡だ。 ここからの眺めは、同じ広重の冨士三十六景の「東都目黒夕日か岡」で知ることができるが、やはり他の目黒シリーズとそっくりな風景が広がる。 但し、こちらの図には目黒通りと思われる街道が確認できる点で興味深い。 坂を下りきると目黒川が流れ、そこに石造りの太鼓橋が架かる。 石造りの太鼓橋というのは、江戸では珍しく、ここは、知る人ぞしる名所であったようだ。 この橋が、雪が降ればツルリと滑る不動詣道中での難所であったと想像するのも面白い。
(江戸名所図会より「太鼓橋」)
名所図会にある太鼓橋の手前左に大きく描かれているのが、正月屋というしるこ餅屋で、鬼平犯科帳にも登場する。 背景に崖が見えない点、橋の向こうの茅葺屋根の位置が極めて低い点の2点から、名所図会は、行人坂側から目黒不動尊方面を望んだものと考えることができる。 すなわち、正月屋は、広重の絵で言うと、橋を渡った先に見える、朱色の引き戸のある家屋の位置であると推定できるが、描かれた時代も数十年違うので、これが正月屋であるのかどうかは不明だ。
つい最近まで、太鼓橋の行人坂側に太鼓鰻という鰻屋が営業していた。この老舗は創業300年であったというから、名所図会の時代にも江戸百景の時代にもここに存在していたことになる。 もし、この鰻屋が当時も行人坂側にあったとすれば、太鼓鰻は正月屋の正面にあったと考えられ、名所図会では、最下中央左の茅葺屋根の家屋がそれであり、江戸百景では左の淵に切れて見えないことになる。 しかし、新旧の地図を比較して見ると、当時の目黒川は湾曲していて、最近まで鰻屋のあった場所 (すでに他の店が入っている) は、逆側対岸の目黒不動側に位置することがわかる。 鰻屋のあった場所が、当時と同一であったと仮定すると、この老舗は、名所図会、江戸百景の双方に登場してくる。 すなわち、前者では、右端に描かれたオープンテラスの店、後者では、広重画というサインの下の家屋ということができる。 もし、お詳しい方がいらっしゃれば、この位置関係についてご教示いただければ幸いだ。 それにしても、老舗の太鼓鰻が閉店してしまったのは残念でならない。 【送料無料】鬼平犯科帳を歩く
【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像マウスオンで現在

めぐろ たいこばし ゆうひのおか

目黒の崖沿いは、なかなかの景勝地であったと見えて、名所江戸百景だけでも狭い範囲で5枚の作品がある。但し、崖の上から見る風景はどれも似てしまいがちと考えたのか、そのうち2枚は崖を見上げる構図にして変化を出し、さらに、夕日に映える木々が美しいというこの夕日の岡には雪を降らせて、目黒を納涼図の舞台とした。
当時、江戸方面から目黒不動に向かう参拝客は、崖を切り開いて作った急な行人坂を下ることになる。 この行人坂の途中に、遠く江戸城まで延焼したという行人坂火事(明和9年)の火元となった大円寺があり、この寺の裏手の土手が、件の夕日の岡だ。 ここからの眺めは、同じ広重の冨士三十六景の「東都目黒夕日か岡」で知ることができるが、やはり他の目黒シリーズとそっくりな風景が広がる。 但し、こちらの図には目黒通りと思われる街道が確認できる点で興味深い。 坂を下りきると目黒川が流れ、そこに石造りの太鼓橋が架かる。 石造りの太鼓橋というのは、江戸では珍しく、ここは、知る人ぞしる名所であったようだ。 この橋が、雪が降ればツルリと滑る不動詣道中での難所であったと想像するのも面白い。
(江戸名所図会より「太鼓橋」)

名所図会にある太鼓橋の手前左に大きく描かれているのが、正月屋というしるこ餅屋で、鬼平犯科帳にも登場する。 背景に崖が見えない点、橋の向こうの茅葺屋根の位置が極めて低い点の2点から、名所図会は、行人坂側から目黒不動尊方面を望んだものと考えることができる。 すなわち、正月屋は、広重の絵で言うと、橋を渡った先に見える、朱色の引き戸のある家屋の位置であると推定できるが、描かれた時代も数十年違うので、これが正月屋であるのかどうかは不明だ。
つい最近まで、太鼓橋の行人坂側に太鼓鰻という鰻屋が営業していた。この老舗は創業300年であったというから、名所図会の時代にも江戸百景の時代にもここに存在していたことになる。 もし、この鰻屋が当時も行人坂側にあったとすれば、太鼓鰻は正月屋の正面にあったと考えられ、名所図会では、最下中央左の茅葺屋根の家屋がそれであり、江戸百景では左の淵に切れて見えないことになる。 しかし、新旧の地図を比較して見ると、当時の目黒川は湾曲していて、最近まで鰻屋のあった場所 (すでに他の店が入っている) は、逆側対岸の目黒不動側に位置することがわかる。 鰻屋のあった場所が、当時と同一であったと仮定すると、この老舗は、名所図会、江戸百景の双方に登場してくる。 すなわち、前者では、右端に描かれたオープンテラスの店、後者では、広重画というサインの下の家屋ということができる。 もし、お詳しい方がいらっしゃれば、この位置関係についてご教示いただければ幸いだ。 それにしても、老舗の太鼓鰻が閉店してしまったのは残念でならない。 【送料無料】鬼平犯科帳を歩く
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