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第21景 芝愛宕山

第21景 芝愛宕山 巳八 安政4年(1857)8月 改印
しば あたごやま

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江戸の地形は平坦と思いがちだが、意外に起伏が激しく、徒歩で散策してみると今でもそれがよくわかる。現在、古来の坂の名も多く残るが、都内中心部に山という名称が残っているものは少ない。中でも愛宕山は、江戸市中に不自然にそびえていた山で、いまでもちゃんと愛宕山として地図に乗る稀有な存在である。

1603年、この愛宕山の頂上に、徳川家康の命で、愛宕神社が創建された。ここは、「天下取の神」「勝利の神」として武家の信仰を集め、武家にからむエピソードとして、次の3つが良く知られている。

(注)愛宕山の麓、すなわち現在の西新橋エリアは、もともと日比谷入江の海岸線であり、天下普請を経て新たに誕生した人工の新天地である。

1.出世の石段
本殿の手前には、男坂と呼ばれる相当な急勾配の石の階段がある。増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅を見つけ、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の下級武士の曲垣平九郎が見事成功し、家光から葵紋付の太刀を与えられ、のちに尾張藩の重役に出世した。

出世の石段

2.水戸浪士の集結の地
1860年、品川宿の土蔵相模を出発した関鉄之介率いる水戸浪士は、他からやってきた18人とこの愛宕神社で集結し、勝利を祈念して桜田門外へと向った。雪の積もる男坂を登ったのだとしたら、さぞ難儀だったろう。

3.江戸城無血開城への洞察
1867年、いよいよ江戸攻めというその直前。勝海舟と西郷隆盛は、家康ゆかりの当山に登り、江戸の町を見下ろした。この息を呑むような大都会を見た西郷は、「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」と気付き、三田の薩摩屋敷で無血開城の調印に応じた。


東都芝愛宕山遠望品川海図

この、関や西郷など、幕末の人々が見たのと同じ風景が、奇跡的にもパノラマ写真として残されている(←外部サイトへのリンク)。 この写真は、イギリスの写真家のフェリックスベアト(1834―1908)が撮影したものだが、中央奥に築地門跡を置き、左端に江戸城、右端には増上寺の森が見え、なんとその奥には江戸湊に浮かぶ台場まで写っている。長く続く2階建ての重厚な長屋塀、屋根に乗せられた火の見櫓、本物の大名屋敷をかくも、緻密に鳥瞰した資料は他になく、マニアにはたまらない一枚である。 明治中期の同じ構図の写真を見たことがあるのだが、大名屋敷の長屋塀が商家に改造されてそのまま使われているのが興味深い。 なお、この写真と、広重の絵を比較するに、広重の絵が山の高さを相当誇張しているのがわかる。 広重の絵には、恐らくここからでは見えないであろう、深川洲崎方面まで網羅している。

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
(江戸図78)
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(現代図78)
atagonow.jpg

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