第54景 外桜田弁慶堀糀町
第54景 外桜田弁慶堀糀町 辰五 安政3年(1856)5月 改印
そとさくらだ べんけいぼり こうじまち
現在の桜田門のある辺りは、もともと中原道(旧東海道)から、太田道灌が築いた江戸城へと続く南の玄関口で、桜田口とか小田原口とか言われていたが、1602年頃に内濠が掘られた際に柵門が作られ、その後、天下普請の時に土橋を持つ枡型の堅牢な門として整備された。土橋を渡り、第一之門(高麗門)を潜って枡内に入ると、そこには、正面に濠を隔てて、石垣を見上げるような威圧的な空間が広がっている。 敵は、仮に第一之門を攻略できたとしても、右にある第二之門(渡り櫓門)に到達する前に、この枡内で必ず正面から射落とされる構造となっていて、防御性は高い。 江戸城の南の守りの要塞としては、外濠の虎ノ門以上に戦略的な縄張りであり、再建とは言え、いまもほぼ当時のままの勇壮を見ることができるのはうれしい。ちなみに、今やこの門は、単に桜田門というが、当時は、明治以降に桔梗門が通称となる内桜田門に対し、外桜田門と呼ばれていた。
なぜここが名所であったのかというと、草の生えた緑色の土手と石垣のコントラストが美しい桜田濠(注)の風景がダイナミックに広がる(今でもこの風景を楽しむことができる)ということもあるが、それ以上に、一般庶民が次々と登城する大名行列を真近で見物できる稀有な場所であったからに他ならない。 この環境に目をつけたのが、水戸浪士を中心としたテロリスト集団で、この絵が改印をうけた約4年後に、ここでアノ事件が起きる。

広重の絵と筆者撮影の写真とを並べてみた。現在、名所江戸百景で鮮明に当時を偲べる場所と言えば、この第54景と、半蔵門を描いた第51景が代表例として挙げられるだろう。江戸城が皇居になったお蔭で、内濠の風景は基本的に当時のまま残った。これは、まさに奇跡と言える。
桜田門外の変(1860年)に至る経緯とその顛末については、他に譲るとして、ここでは、井伊直弼がここで遭難するに至る経路について着目してみよう。 広重の絵をみていただきたい。 この絵の主題は桜田濠であり、前述の美しい風景が広がっている。 絵の中央左には、朱色をした武家屋敷の門構えが見えるが、この屋敷が、彦根藩35万石の上屋敷 (現在の憲政記念館を中心とした敷地)であり、その主こそが、遭難の主人公、井伊直弼だ。
井伊の行列は、約60人で、万延元年3月3日の朝9時頃この赤門を出発した。 彦根藩の上屋敷から桜田門までは、わずか600メートル程、殆どの道程は、安芸広島藩浅野家の上屋敷の裏側に続く長屋塀と桜田濠の間の緩やかな下り坂である。 行列先頭がいよいよ外桜田門の土橋を渡ろうとした直前、襲撃が起こった。 江戸時代を通じて、250年近く、この道程での登城を繰り返していたわけであるから、彦根藩にとっては雪中ではあるが、まさに青天の霹靂であったろう。 長年の馴れと、近距離であるということで、警備に油断があったことは否めない。 あまり知られていないが、当日縦列した家臣のうち、生き残った者全員が警備不備を理由に、療養後、切腹が命じられ、その家族にも、処分が及んだという。 桜田門外の変は、彦根藩にとって、とんだ災難であったわけだ。 【送料無料】桜田門外ノ変
(江戸図54)

(現代図54)

【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
(注)広重のタイトルでは弁慶堀とあるが、これは現在、桜田濠と呼ばれている濠である。 一般的に、弁慶濠と言えば、外堀の喰違目付から赤坂門外にかけての外濠を指すので、紛らわしい。 ちなみにこの絵の右上に火の見櫓が見える。 これは、火消し役の旗本、神保家の屋敷内にあった火の見櫓で、現在この近辺の麹町一丁目に東京FMの電波塔がある。 当時も今も、同じ場所に塔があるのは、大変興味深い。 麹町(糀町)が高台ということだろう。 絵本江戸土産には、麹町から逆に桜田門方面を見下ろした図があるが、築地門跡も江戸湊も、そして房総半島まで見えるなかなかの眺望を描いている。
そとさくらだ べんけいぼり こうじまち

現在の桜田門のある辺りは、もともと中原道(旧東海道)から、太田道灌が築いた江戸城へと続く南の玄関口で、桜田口とか小田原口とか言われていたが、1602年頃に内濠が掘られた際に柵門が作られ、その後、天下普請の時に土橋を持つ枡型の堅牢な門として整備された。土橋を渡り、第一之門(高麗門)を潜って枡内に入ると、そこには、正面に濠を隔てて、石垣を見上げるような威圧的な空間が広がっている。 敵は、仮に第一之門を攻略できたとしても、右にある第二之門(渡り櫓門)に到達する前に、この枡内で必ず正面から射落とされる構造となっていて、防御性は高い。 江戸城の南の守りの要塞としては、外濠の虎ノ門以上に戦略的な縄張りであり、再建とは言え、いまもほぼ当時のままの勇壮を見ることができるのはうれしい。ちなみに、今やこの門は、単に桜田門というが、当時は、明治以降に桔梗門が通称となる内桜田門に対し、外桜田門と呼ばれていた。
なぜここが名所であったのかというと、草の生えた緑色の土手と石垣のコントラストが美しい桜田濠(注)の風景がダイナミックに広がる(今でもこの風景を楽しむことができる)ということもあるが、それ以上に、一般庶民が次々と登城する大名行列を真近で見物できる稀有な場所であったからに他ならない。 この環境に目をつけたのが、水戸浪士を中心としたテロリスト集団で、この絵が改印をうけた約4年後に、ここでアノ事件が起きる。

広重の絵と筆者撮影の写真とを並べてみた。現在、名所江戸百景で鮮明に当時を偲べる場所と言えば、この第54景と、半蔵門を描いた第51景が代表例として挙げられるだろう。江戸城が皇居になったお蔭で、内濠の風景は基本的に当時のまま残った。これは、まさに奇跡と言える。
桜田門外の変(1860年)に至る経緯とその顛末については、他に譲るとして、ここでは、井伊直弼がここで遭難するに至る経路について着目してみよう。 広重の絵をみていただきたい。 この絵の主題は桜田濠であり、前述の美しい風景が広がっている。 絵の中央左には、朱色をした武家屋敷の門構えが見えるが、この屋敷が、彦根藩35万石の上屋敷 (現在の憲政記念館を中心とした敷地)であり、その主こそが、遭難の主人公、井伊直弼だ。
井伊の行列は、約60人で、万延元年3月3日の朝9時頃この赤門を出発した。 彦根藩の上屋敷から桜田門までは、わずか600メートル程、殆どの道程は、安芸広島藩浅野家の上屋敷の裏側に続く長屋塀と桜田濠の間の緩やかな下り坂である。 行列先頭がいよいよ外桜田門の土橋を渡ろうとした直前、襲撃が起こった。 江戸時代を通じて、250年近く、この道程での登城を繰り返していたわけであるから、彦根藩にとっては雪中ではあるが、まさに青天の霹靂であったろう。 長年の馴れと、近距離であるということで、警備に油断があったことは否めない。 あまり知られていないが、当日縦列した家臣のうち、生き残った者全員が警備不備を理由に、療養後、切腹が命じられ、その家族にも、処分が及んだという。 桜田門外の変は、彦根藩にとって、とんだ災難であったわけだ。 【送料無料】桜田門外ノ変
(江戸図54)

(現代図54)

【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
(注)広重のタイトルでは弁慶堀とあるが、これは現在、桜田濠と呼ばれている濠である。 一般的に、弁慶濠と言えば、外堀の喰違目付から赤坂門外にかけての外濠を指すので、紛らわしい。 ちなみにこの絵の右上に火の見櫓が見える。 これは、火消し役の旗本、神保家の屋敷内にあった火の見櫓で、現在この近辺の麹町一丁目に東京FMの電波塔がある。 当時も今も、同じ場所に塔があるのは、大変興味深い。 麹町(糀町)が高台ということだろう。 絵本江戸土産には、麹町から逆に桜田門方面を見下ろした図があるが、築地門跡も江戸湊も、そして房総半島まで見えるなかなかの眺望を描いている。

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