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第22景 広尾ふる川

第22景 広尾ふる川  辰七 安政3年(1856)7月 改印
ひろお ふるかわ

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古川の源流のひとつは、玉川上水である。玉川上水が四ツ谷大木戸の水番所を過ぎて暗渠に突入する際、水圧を調整する目的で、南側に捨てミズ用の水路が掘られた。 それを、もともとあった、穏田川(渋谷川)に接続して、江戸湊までの約10キロを結ぶ放水路が作られた。延宝3年(1675)に、麻布山近辺に大名屋敷や寺社仏閣を建造するための物資輸送の手段として、江戸湊までの最後の約1マイルが運河として再整備されたが(←関連記事参照)、この時、この運河は、新しく掘られたという意で新堀川と命名され、それに対して、運河終点の麻布十番より上流は、古くからの流れの意で、古川と呼ばれるようになった。古川には、麻生十番の船着き場より、数百メートル間隔で、順に一之橋から四之橋まで連番名称で橋が架けられ、現在も、首都高の高架下という残念な環境ではあるが、その全ての橋と名称が残る。 一ノ橋ジャンクションといえば、首都高ユーザーならだいたいの位置関係がわかるだろう。

前置きはさておき、この絵に描かれた橋は、前述の四之橋(よのはし)、橋の北側に、土屋相模守(安政期は、官途名として、土屋釆女正)の下屋敷があったことから、別名、相模殿橋と呼ばれていた橋である。もっと上流の天現寺橋であるとの説があるらしいが(注)、同時期に広重の描いた「絵本江戸土産」に、これと酷似した絵があり、そのタイトルが、「麻布古川、相模殿橋、広尾之原」 とはっきり書いてあるので、この橋が四之橋であると特定できる。 また、「江戸名所図会」でもこの辺りを取り上げていることから、この四之橋界隈が、それなりに知られた場所であったことがわかる。 では、ここにはどんなアトラクションがあったのだろう?

(注) 出所は不明だが、この絵の橋が天現寺橋であるとの説があるそうだ。 しかし、江戸時代の天現寺橋は、古川ではなく、霞町(現西麻布)方面から古川に注ぐ笄川(こうがいがわ)に架かっていた。渋谷川/古川に天現寺橋が架けられたのは、1935(昭和10)年である。 したがってこの橋が天現寺橋であるとは、まず考えられない。

絵本江戸土産 麻布古川、相模殿橋、広尾之原 (広重)
土産広尾 

さて、では何故ここが、名所だったのかを考察してみよう。江戸時代の名所は、寺社仏閣がテーマとなっていた場合が多い。ご多分に漏れず、それがこの答えである可能性は高い。ここには、7世紀の白鳳時代に鎮座し、江戸随一の規模を誇る白金氷川神社があった。また、この神社を中心に、明暦の大火以降、多くの名刹が引越してきて、一大寺町(てらまち)を形成していた。天下のご意見番として知られる、大久保彦左衛門と、子分の一心太助の眠る立行寺もここにある(注)また、麻布から目黒不動へと行く場合も、明治になって古川橋が架けられるまでは、この界隈を通過して、三光坂(三鈷坂)を上り、白金の尾根を伝わって、行人坂(←関連記事参照)へと至るのが一般的だった。つまり、歴史ある寺社仏閣と、交通の要所的な土地柄が、名所の条件にあっていたということか。いや、それだけではないだろう。(注)大久保彦左衛門の晩年の屋敷は、白金台の現八芳園あたり。

尾張屋版の嘉永切絵図などから、本図の橋の向こうに見える二階建ての家屋が、麻布田島町にあった「狐鰻」という料亭であることがわかる。この「狐鰻」は、江都自慢の番付にも掲載されるほど、江戸グルメなら誰もが知っていた鰻屋だ。 狐つながりで、もう少し上流には、「狐蕎麦」という蕎麦屋もあった。小説ではあるが、鬼平犯科帳や御宿かわせみにも、鷺森神明の居酒屋や氷川神社至近の茶屋が登場する。 つまり、ここは、寺社巡りの後、隣接する大な根に住む狼の遠吠えでも聞きながら、一杯やれる店がたくさんあったことで、名所となっていたという推理はどうだろう。 或いは、気軽に狐に化かされるという尾も白い体験のできる稀有な場所であった、というのもアリかもしれない。  【送料無料】鬼平犯科帳を歩く


江戸名所図会 鷺森神明 西光寺 氷川明神 (雪旦)
図会鷺森神明

安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大
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