第114景 びくにはし雪中
第114景 びくにはし雪中 午十 安政5年(1858)10月 改印
びくにはし せきちゅう
戦災をも耐え、戦後になっても多くの部分が残されていたのに、東京オリンピック前後の浮かれたムードの中、一気に失われてしまった江戸のHeritageのひとつが、外濠とそこに架かる橋の風景である。 今でも、御茶ノ水から四ツ谷にかけて、奇跡的に残った外濠を確認することができるが、あれが、江戸城外濠の遺構であることを知る人は意外に少ない。 高度成長期、首都高建設のために、至る所で外濠の敷地が奪取された。 もともと水運の環状線だった外濠の軌道を、そのまま現在の高速が利用しているのは、ある意味興味深い。 しかし、利便性と引き換えに、日本橋、京橋、そして数寄屋橋の上など、歴史的遺産のうえに高速を通してしまったセンスない都市整備は、本当に残念である。
当図の比丘尼橋(びくにばし)も、都市化の犠牲となった橋だ。 至近の呉服橋、鍛冶橋、京橋、数寄屋橋、新橋など、橋は失われても、後世にその名だけは留めたものもあるが、この比丘尼橋のように、橋もろとも忘れ去られた橋は、枚挙に暇がない。 比丘尼橋付近は、現在でこそ、有楽町プランタンの北側に位置し、銀座至近の一等地である。 しかし、比丘尼とは私娼の俗称で、もともと娼窟があったというから、ここは、日本橋通りから奥まり、また大名屋敷と町人地を分かつ幅広い外濠際の寂しい一帯であったことが想像できる。
さて、この絵には、目を引く看板が二つ描かれている。 一つ目は、左に見える「山くじら」、もうひとつは、右の屋台の前に掲げられた 「○(マル)やき 十三里」 である。 「山くじら」とはイノシシのことであり、ここに猪鍋を食わせる、尾張屋という店があった。 猪鍋など、今ではなかなか食べる機会はないが、当時は割りとポピュラーな庶民の味であったようだ。 本当は、この時代、獣肉食は禁止されていたはずなのだが、鯨の一種ということにして適当に逃げたのだろう。 蛇の道は蛇である。 では、次の「○やき 十三里」とは何なのか。
(東都歳時記より)

当時、川越で獲れる甘藷は人気があり、江戸から13里離れた川越の芋ということで、サツマイモ = 十三里 という図式ができた。 つまり、「○やき 十三里」とは焼き芋のことである。 実は、この看板は、そのまま 「十三里」だが、これは安政期に登場した新しいキャッチコピーで、それ以前まで、焼き芋の看板といえば、「○やき 八里半」 というのが主流だった。 八里半は、九里の一歩手前、九里とは、「栗」のことで、焼き芋は、栗よりも半里先んじて美味いよという意味である。 ところが、これに飽き足らなかったのか、ある商売上手が、芋(十三里)は栗(九里)よりも、四里も越えて美味いよの意で、「九里(栗)四里(より)美味い十三里(芋)」 という、駄洒落コピーを生み出し、さらに美味さを強調することに成功した。 実際には日本橋から当時の道のりで、産地の三芳まで、十三里半あったらしい。 なので、本当は、「九里(栗)四里(より)半美味い十三里半(芋)」で、さらに半里分、美味さを強調できるポテンシャルはあった。 十三里で留め置いたのは、遠慮したのか、それとも単に語呂の問題か。 ◆川越いもシュー10個入◆

右の写真の上に覆い被さっているのは、首都高である。広重の絵と比較してみると、首都高は、比丘尼橋の架かる掘割(下流は八丁濠)の軌道上に敷設されたことが、よくわかる。
【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大


びくにはし せきちゅう

戦災をも耐え、戦後になっても多くの部分が残されていたのに、東京オリンピック前後の浮かれたムードの中、一気に失われてしまった江戸のHeritageのひとつが、外濠とそこに架かる橋の風景である。 今でも、御茶ノ水から四ツ谷にかけて、奇跡的に残った外濠を確認することができるが、あれが、江戸城外濠の遺構であることを知る人は意外に少ない。 高度成長期、首都高建設のために、至る所で外濠の敷地が奪取された。 もともと水運の環状線だった外濠の軌道を、そのまま現在の高速が利用しているのは、ある意味興味深い。 しかし、利便性と引き換えに、日本橋、京橋、そして数寄屋橋の上など、歴史的遺産のうえに高速を通してしまったセンスない都市整備は、本当に残念である。
当図の比丘尼橋(びくにばし)も、都市化の犠牲となった橋だ。 至近の呉服橋、鍛冶橋、京橋、数寄屋橋、新橋など、橋は失われても、後世にその名だけは留めたものもあるが、この比丘尼橋のように、橋もろとも忘れ去られた橋は、枚挙に暇がない。 比丘尼橋付近は、現在でこそ、有楽町プランタンの北側に位置し、銀座至近の一等地である。 しかし、比丘尼とは私娼の俗称で、もともと娼窟があったというから、ここは、日本橋通りから奥まり、また大名屋敷と町人地を分かつ幅広い外濠際の寂しい一帯であったことが想像できる。
さて、この絵には、目を引く看板が二つ描かれている。 一つ目は、左に見える「山くじら」、もうひとつは、右の屋台の前に掲げられた 「○(マル)やき 十三里」 である。 「山くじら」とはイノシシのことであり、ここに猪鍋を食わせる、尾張屋という店があった。 猪鍋など、今ではなかなか食べる機会はないが、当時は割りとポピュラーな庶民の味であったようだ。 本当は、この時代、獣肉食は禁止されていたはずなのだが、鯨の一種ということにして適当に逃げたのだろう。 蛇の道は蛇である。 では、次の「○やき 十三里」とは何なのか。
(東都歳時記より)

当時、川越で獲れる甘藷は人気があり、江戸から13里離れた川越の芋ということで、サツマイモ = 十三里 という図式ができた。 つまり、「○やき 十三里」とは焼き芋のことである。 実は、この看板は、そのまま 「十三里」だが、これは安政期に登場した新しいキャッチコピーで、それ以前まで、焼き芋の看板といえば、「○やき 八里半」 というのが主流だった。 八里半は、九里の一歩手前、九里とは、「栗」のことで、焼き芋は、栗よりも半里先んじて美味いよという意味である。 ところが、これに飽き足らなかったのか、ある商売上手が、芋(十三里)は栗(九里)よりも、四里も越えて美味いよの意で、「九里(栗)四里(より)美味い十三里(芋)」 という、駄洒落コピーを生み出し、さらに美味さを強調することに成功した。 実際には日本橋から当時の道のりで、産地の三芳まで、十三里半あったらしい。 なので、本当は、「九里(栗)四里(より)半美味い十三里半(芋)」で、さらに半里分、美味さを強調できるポテンシャルはあった。 十三里で留め置いたのは、遠慮したのか、それとも単に語呂の問題か。 ◆川越いもシュー10個入◆

右の写真の上に覆い被さっているのは、首都高である。広重の絵と比較してみると、首都高は、比丘尼橋の架かる掘割(下流は八丁濠)の軌道上に敷設されたことが、よくわかる。
【安政3年(1856)実測復刻江戸図より作成】 画像クリックで拡大


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