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第45景 八ツ見のはし

第45景 八ツ見のはし 辰八 安政3年(1856)8月 改印
やつみのはし

ikkokubashi.jpg

今さらわざわざ述べることでもないが、江戸には濠とそこにかかる橋の風景が至るところにあった。  タイトルの "八ツ見の橋" とは、そうした橋が一気に8つも望むことができるということで、名所図会にも取り上げられるほど有名な場所であった。 "八ツ見の橋" という俗称を持つこの 「一石橋」 からは、自分自身も含めて、1.一石橋 2.常盤橋 3.日本橋 4.江戸橋 5.呉服橋 6.鍛冶橋 7.道三橋 8.銭瓶橋 (順不同)が見えたというが、山車のてっぺんにでも登らない限り、本当に全部見えたかどうかは疑問だ。 特に鍛冶橋はちょっと遠すぎるような気もする。 八は、末広がりで縁起がいいとされる数なので、見えない橋や、自分自身も無理やり含めて、八ツ見の橋としたと考えるのが自然だろう。

なお、この一石橋には、迷子の掲示板「一石橋迷子しらせ石標」があり、今も本物が現地に残っている。一石橋と言えば、そう、大五郎である。 ここでは、後藤と後藤で、五斗×2=一石 ではなく、ててご(父御)とははご(母御)と、御斗×2=一石 である。 普通の迷子なら、一石橋で待てば、両親に会えるのかもしれない。 だが、大五郎に母はいない。 なので、一石橋には行かないのである。



さて、この広重の絵の正面に見える橋は、銭瓶橋(注1)で、この橋の下を流れるのが道三掘(注2)である。この道三掘は、数ある水濠のなかでも最も注目すべき濠と言っていいだろう。その理由は、この濠が徳川氏が江戸に入った時、江戸城の建設の為の物資や篭城の際の食料を搬入するために、まず最初に掘った濠だからである。家康入城当時は、現在の皇居前広場一体付近まで、日比谷入り江と呼ばれる海域となっており、この入り江を使えば、物資を江戸城本丸付近まで運搬して来ることは可能であった。しかしながら、房総方面からの物資、特に行徳の塩を、船にて搬入する場合、大きく迂回する必要があった。また、南方面に敵が布陣すれば、城までの水路が一切断たれてしまうという懸念もある。そうした課題に対する防御策として、江戸城本丸から隅田川に一直線に抜ける人工の運河を掘った。それが道三掘とその下流にあたる現日本橋川である。(←関連記事;小奈木川五本まつ 参照)

後に、神田山(現在の駿河台付近)を崩した土砂などで、日比谷入り江の埋め立てが完了すると、この道三掘と現日本橋川こそが、江戸城本丸へと続く唯一の水運路となった。またこの掘割沿いに、魚河岸などもでき、江戸経済発展に大きく貢献したことは、歴史の伝える事実である。

(注1)銭瓶橋の名称は、この道三壕を掘った時に、この辺りから、中国・民の通貨である、永楽銭の入った瓶(かめ)が出てきたことによる。江戸前島には、もともと鎌倉円覚寺の荘園があって、長吏と呼ばれる代官が銭をとって管理する港が存在していたことがわかっている。

(注2)道三壕は、この壕沿に、徳川氏の侍医であった曲直瀬道三(まなせどうさん)の屋敷が与えられたことによる。

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(江戸図45)
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(現代図45)
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